人間禅道場

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松老雲閑


 
      
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松老雲閑      (しょう)(ろう)(うん)(かん)

 これは「松老い雲(しず)かなり」と読んでもよいが、禅家では一般に「(しょう)(ろう)(うん)(かん)」と音読し、大禅者の悠々閑々たる高い境涯を託した語である。 「竹(けん)二三升の流水、松窓七五片の閑雲」のほかには別に財物とてもないが、この無一物のところにかえって無尽蔵の豊かさを味わい、「三間の茅屋(ぼうおく)人の到る無し、十里の松門独り自ら遊ぶ」と、世俗の外に超然と閑居し、悠々自適している大禅者の境涯を、禅家では「松老雲閑」の境涯というのである。しかしこういうと、「松老雲閑」の大禅者の境涯とは、世俗を白眼視して山中深くこもり、衆生済度などは我れ関せずと独り自らを清くしている小乗の羅漢(らかん)や、道教のいわゆる仙人や世にすねた隠者の境涯と同じものか、という疑問をもたれる方もあるかもしれない。なるほど両者の生き方は、外見上、いかにも類似してはいる。しかし両者は迷った衆生のうごめき苦しんでいる世俗に対する態度において、根本的に大きくちがっているのである。

「衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成」とは、いやしくも仏教徒の等しく誓願とするところである。第一の誓願は無辺の衆生を済度しつくそう、少しでも世のため他人(ひと)のためにつくそうという誓願、他を利益(りやく)するという意味での利他の願であり第二・三・四の誓願は合わせて自己の人格を完成し、自己を利益しようという自利の願である。そしてこの自利と利他とは、矛盾し背反するものではなく、自利即利他・利他即自利で、自利と利他とは不二一如で元来円満に両立するものである。

 この自利と利他とを不二一如・表裏一体の関係で円満に行じようと願うこと、簡単にいって自利利他円満であろうとすること、これが大乗仏教徒とりわけ大乗の菩薩の誓願である。これに反して自利の願だけを抱いて利他の願をもたない者、それが小乗の羅漢であり、また世のいわゆる仙人や隠者である。大乗の菩薩と羅漢・仙人・隠者とは、利他の願の有無という点で決定的にちがっている。

「松老雲閑」の境涯は外見上、自利一辺倒の羅漢や仙人の境涯にみえるであろう。しかし、いやしくも大乗の菩薩中の菩薩である大禅者が、利他の誓願を忘れるはずはない。事実彼は「白雲深き処に(さい)()を閉じ」、世俗の外に超然として自然を友とし閑居幽棲をたのしんでおりながら、しかも世間をつぶさに観察し、利・衰・()・誉・称・()・苦・楽のいわゆる八風に翻弄されている衆生に、絶えず慈眼を向けているのである。そして乞われれば政治家・財界人など世のリーダーを大所高所から指導し、また時には娑婆世界にも下り、あたかも観音菩薩や布袋さんのようにどこへでもノコノコとでかけ、縁あれば誰とでも語り、遊戯(ゆげ)しながらいつのまにか衆生の苦を抜き人びとに生きることの喜びを感じさせる。しかも彼は十字街頭の真只中にありながら、「松老雲閑」の境涯を少しも離れていないのである。

 
 芳賀幸四郎著「新版一行物―禅語の茶掛け」上巻より       人間禅
 
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