人間禅道場

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別無聖解

 
      
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別無聖解 (べつ)(しょう)()()

 前に「別無工夫――別に工夫無し」という語を紹介したが、これと構文の類似したものに「別無聖解――別に(しょう)()()し」という語がある。しかも同じ無窓国師の筆になるその一軸があって、神戸の浅田家に伝存している。 およそ人びとが、さまざまな困難を忍んで修行にはげむのは、自己に本来円満にそなわっている仏性を徹見し、すなわち悟りを開き、さらに悟後の修行を継続してその悟りを確かなものとし、それに伴って道(げん)を磨き、道(りき)をやしない、境涯の向上をはからんがためである。見性成仏をはからんがためである。
 そして世間の多くの人びとは、見性し開悟すれば生きながら仏に成ったのであるから、すばらしい知見が開け、霊妙不可思議な力、たとえば神通力(じんづうりき)のようなものが身につき、人相なども神々(こうごう)しいものになるものと期待しているようである
 世の禅僧のなかには、禅の修行をするとこんな御利益があると説く向きもあるから、人びとが前のような期待を抱くのも無理はない。しかし無窓国師はそれに対して、「別に聖解なし」すなわち「禅の修行をやり、悟りをひらいたとて、別に人相が変わるわけでもなく、特別殊勝げな知見が開けるわけでもなく、また不可思議な神通力が身につくわけでもない」というのである。
 これは何か特別な効果を期待して禅の修行に入った人びとにはショッキングなことであろうが、「仏法は(しるし)なきこそ効なれ」(夢中問答中巻47段)で、この「別に聖解無し」とはまさに真実不虚(ふこ)の語である。そしてこれに関連して、想起されるのは、石頭(せきとう)希遷(きせん)(700~790)と(ほう)居士(こじ)(?~808)との有名な問答である。
 龐居士は当初石頭和尚に参じ、「万法と(とも)たらざる者、これ何人ぞ」、すなわち「天上天下唯我独尊なるものとは、いったい何者か」と問い、石頭の作略(さりゃく)(せい)悟し、その後しばらく石頭の会下(えか)とどまっていた。ある日のこと、和尚、龐居士に向かって「居士はあれ以来、毎日をどのようにすごしているか。悟りを開いたのだから、さだめし、すばらしい神通力を発揮していることと思うが、どんな具合じゃ」と問われた。こう問われて居士、「ハイ、天眼通(てんげんつう)・天()通を得まして、ドえらいはたらきしています」とでも答えるかと思いきや、「日用別事無し、唯だ吾れ(おのず)から(たまた)(かな)うのみ。神通(ならび)に妙(ゆう)、水を(にな)いまた柴を(はこ)ぶ」という一偈をもって答えたのであった。 いや、格別変わったこともありません。水がなくなれば谷川に()りて水を汲みあげ、柴がなくなれば山に入って柴を刈り、腹がへれば飯をくい、くたびれれば横になる、それだけことです。という肚である。石頭はこれを聞いて、居士の見解を大いにうけがったのである。大禅者の神通妙用とはまさにこのように、いささかも思慮、分別にわたらず、自然(じねん)に当り前のことをサラリとやるだけのことである。
芳賀幸四郎著「新刊一行物――禅語の茶掛け」上巻より 人間禅
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