人間禅道場

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    (む)

  
      
   


 古来、禅僧はよく「無」の一字をよく揮毫している。そしてこの「無」が「無門関」の第一則にも採られている 「 趙州(じょうしゅう) 無字(むじ) 」の公案、『僧、趙州に問う。 狗子 (くす ) (かえ) って仏性有 りや、 (また) た無しや。州云く、無。』に由来していることは、今 さら指摘するまでもあるまい。ちなみに趙州とは 、法を南泉普願に () ぎ趙州(河北省)の観音院に住し法 () 従諗 (じゅうしん) といった禅僧で(七七八~八九七)、この「無字」のほか、 「 喫茶去( きっさこ ) 」「庭前の 柏樹子(はくじゅし) 」など多くの公案をのこしている有名な禅僧である。その趙州に向かって一人の僧が「門前 のあの犬ころにも仏性がございますか」と問いを発した。この 僧は (はら )のなかで は「一切衆生 (しつ) () 仏性なのだから、犬にも猫に も仏性があるはず、当然有る!!」という答えが返ってくるものと予期して いた。ところが意外も意外、「無!!」と返って きた。ここで「無!!」と答えた趙州のその肚を把得し て真正の 見解(けんげ ) をもってこい、というのがこの公案の眼目である。もしこれに対して真正の 見解 (けんげ) を呈しえたら「一切衆生 (しつ) () 仏性」という釈尊の悟り・大乗仏教の根本の教理をほんとうにわがものとし、禅宗のいわゆる 見性(けんしょう) 成仏(じょうぶつ)ので きることは請合いである。


 但しこの「無」は

無門(むもん) ()(かい )が「無門関」で「虚無の () () すこと莫れ,有無の会を作すこと莫れ」といまし めているように、空々寂々なんにもな いという虚無の無 でもなければ、有るに対する無いという相対的な無でもない。それは有と無などの相対未だ分かれざる以前の根源的な無であ り、有無相対 を超越した絶対的な無で ある。しかし根源的な無だとか絶対無だとかいってみたところで、それは哲学的な概念にすぎない。この「無」ば かりは実地に体得しない限 り、いかに説明・注釈してみても、つい に絵に描いた餅も同然で、何のたしにもならない、それならば、この「 無」を体得するにはどうしたらよいのかというに、つまるところ 明眼 (みょうげん)師家(しけ) について、その指導 のもとに (にょ) 法に坐禅し、実参実証するほかはない。要は無門が「纔※ (わずかに) に有無に渉れば喪心失命せん」と注意し、同じことを五祖法演が、「無」を抜身 の名刀にたとえ、

  趙州露刃剣     趙州の露刃 (ろじん ) (けん)

  寒霜光灼然     寒霜光灼 (かんそう ひかりしゃく)(ねん)


  纔※擬是如何    纔※かに是れ如何と擬すれば

  分身作両段     見を分かって両段と

()

 

 と頌じているように、有無・是非・善悪など一切の相対的な思慮分別にわたることなく、それらの念 慮を殺しつくして、全身 ただこれ 「無」になりきることである。そしてこの『無』をほんとうに体得することを、禅門では見性といい、開 悟というのである。   

  ※いとへんでは無くかねへんですが、正しい漢字が表示できない ため代用しました。

       芳賀幸四郎著『新版一行物』より     人間禅

 

 

 

 

 

 

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