人間禅道場

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明珠在掌

 
      
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  明珠在掌       明珠(めいじゅ) (たなごころ) に在り
 「碧厳録」の第九十七則に「金剛経軽賤」という一則があるが、この則に加えた雪竇(せっちょう)(じゅう)(けん)の頌の冒頭に「明珠(みょうじゅ) (たなごころ)に在り、功有る者は賞す。胡漢来らず、全く伎兩無し」という二句がある。この場合の「明珠」は頌の意味からみて「明鏡台に当り、当下に姸醜を分つ」という句の明鏡と同じ意味である。したがってこの場合の「明珠 掌に在り」はあたかも照魔鏡にも似た明珠をチャンとそなえていて、わが前に来るものをあるがままに正しくうつしとり、その正邪・曲直・方円・美醜を判定していささかの(ゆが)みもない、という意味である。この句はこのように解釈して、勿論結構である。
 しかし仏教を外護し仏心天子とも称された(りょう)の武帝の帰依をうけ、その顧問の任にあった僧宝誌(ほうし)が「身内に自ら明珠あり」と説いているように、「明珠 掌に在り」は必ずしも雪竇の専売ではない。だから一行物としてある場合には、雪竇の頌を離れて、次のように解釈したほうがおもしろいと思う。
 万人が男女・老幼・貴賤・貧富・賢愚・美醜ないし職業・国籍・人種の別にかかわりなく、仏と寸分たがわぬ本心本性すなわち仏性を、生まれながら円満かつ平等にそなえているとは、、大乗仏教の根本の教理である。この仏性にもまして貴い宝物はなく、この仏性を宿しているがゆえに人格は尊厳なのである。この貴重な仏性が万人に本来円満かつ平等にそなわっていることを、仏性を明珠にたとえて表現したのが、この「明珠 掌に在り」の一句なのであり、後出の「寶剣 手裏に在り」とほぼ同じ意味である。
 ところで、万人は本来仏性をそなえている。その意味で「衆生本来仏なり」が真理ならば、今さら修行などして成仏(じょうぶつ)をはかる必要はないではないか、という意見がきっと出るであろう。しかしいかに貴い明珠を持っていたにしても、それを煩悩妄想の泥中に埋没させ、その在り場所もわからないという有様では宝の持ちぐされで、ないも同然である。 すばらしい無価の宝珠、その価値が無限大で、価格のつけようもない貴い珠玉が自分にある、と知識として知っていたとて、実物をつかんでいなければ空手形(からてがた)にすぎない。
 (えい)(へい)道元(どうげん)が、この仏性の明珠は「人人(にんにん)の分上ゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」といましめているように、どうしても修行に骨折って、これをしっかりと証得してわがものとすることが必要である。そしてこの明珠は本来、自己の五尺の肉体を離れず在るのであるから、修行しさえすれば、万人が万人必ずこれを証得することができることは、絶対に保証する。修行してこの明珠を発見し証得し、さらに修行を継続して長年の埋没によって生じた(あか)(さび)を取り除き、磨きに磨いていけば、この明珠はついに如意(にょい)宝珠(ほうしゅ)となるのである。この如意宝珠を掌中にして如意自在に生きてこそ、生きがいある人生というものである。
  芳賀幸四郎著「新版一行物―禅語の茶掛」上巻より
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