人間禅道場

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把手共行

 
      
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             手を()って(とも)に行く
 「手を()って共に行く」というこの四字一句は、「無門関」の第一則の有名な「趙州(じょうしゅう)無字」の公案に加えた無門(むもん)()(かい)の評唱に、(もしこの趙州無字の公案を)(とお)(とく)()せば、(ただ)に親しく趙州に(まみ)ゆるのみに非ず。便(すなわ)ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛()い結んで同一(げん)に見、同一()にに聞くべし。()に慶快ならずや。とあるのに典拠したものである。ちなみにこの一段の意味は、
 もしお主たちが「趙州無字」の公案に参じて、「門前の()せ犬にも仏性がありますか、一切衆生(しつ)()仏性ともいわれますから、当然あるでしょうな」という(はら)で問うた僧に、趙州が「無ⅱ」と答えたその肚を了得できたら、それは禅宗の第一関門を透過した、見性成仏ができたというものである。そして趙州和尚に親しくお目にかかることができよう。いやそれだけではない。達磨大師をはじめ、歴代の祖師方と手に手を把って共に行き、祖師方と同じ目でものを見、同じ耳で聞くことができよう。祖師方と同じように
自然と人生とを味わうことができよう。それはまことになんとすばらしいことではないか。痛快の極みというものである。さあ、お主ら、この関門を透過すべく骨折れ!この公案に参じて真剣に工夫せよ!
 というほどのことである。だが「趙州無字」の公案を透過すれば、なぜ趙州和尚に親しく相見でき、さらに歴代の祖師方と「手を把って共に行き」、同じ眼耳で見聞覚知できるのであろうか。それはほかでもない、趙州の「無!」といった肚がわかれば、仏にあって増さず凡夫にあって減ぜずといわれる仏性が「ウン、これだ」とわがものとなり悟りが開ける そしてこの悟りこそ趙州をはじめ歴代の祖師方の真面目であり、その肚だからである。趙州の「無!」といった肚がわかれば見性成仏ができ、見性成仏ができれば、少なくも理の上においては祖師方と同格であり、その肚は同じだからである。
 「趙州無字」の公案を透過し、見性成仏の第一関門を通過したからといって、すぐに実境涯として「歴代の祖師と手を把って共に行き、同一眼に見、同一耳に聞く」ことはほとんど不可能であるが、少なくも理の上においては、そういって決してまちがっていない。事実禅の修行が進み道眼が明白となり道力がついてくると、格別注釈書などを読まなくとも「般若心経」や「観音経」はもとより「維摩経」でも「華厳経」でも、よくわかるようになるし、歴代の祖師方の語録や公案も「なるほど」「ウン、そういう肚か」と合点がいくようになるから不思議である。無門慧開の説くところ、たしかに人をあざむかずである。
  芳賀幸四郎著『新版一行物―禅語の茶掛け』上巻より 人間禅
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