人間禅道場

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泥多仏大
        
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    泥多仏大          (どろ)(おお)ければ(ほとけ)(だい)なり
 古代においては材料の入手と造形の容易さから、仏像を作るのに泥土をもってすることが多かった。現に天平仏の代表ともいうべき東大寺三月堂の日光・月光の両菩薩像や、同戒壇院の四天王像はいずれも泥土を材料とした塑像である。ところでその材料の泥土の分量が少なければ、出来上がりの仏像は当然小さくなるが、分量が多ければそれに応じて仏像は大きくなる道理である。「泥多ければ仏大なり」とは、この道理をいったものである。しかしこのようなわかりきったことをいまさら禅語だといい、これを揮毫するのはなぜであろうか。それはほかでもない、この四字一句が大乗仏教の積極的な五欲煩悩観の比喩として、すこぶる適切だからである。

 山形県上山市の関根という一地域から、とてもおいしく色も美しい干柿を産するが、その原料の生柿はおそろしく渋い柿である。この渋柿の皮をむいて秋の陽に干すとその渋さがトロリとした上品な甘さに変化し見事な紅干柿が出来上がるのである。 ところで渋柿が甘くなるのは、渋がどこかに蒸発し、代って甘みがよそから入ってくるからではない。渋みがそのまま甘みに変わるのである。その証拠にもともと渋みの少ない柿は干してもさほど甘くはならない。渋い柿ほど甘くなるから不思議である。まさに「渋多ければ甘み大なり」である。

 また疳癖が強く調教に手こずるような馬ほど、うまく調教すると駿馬になるとのことである。事実、古来名馬といわれたほどの馬はみな、本来はいわゆるおとなしい馬ではなく、このような悍馬であったようである。

 そして渋柿と悍馬についていわれることは、そのまま人間の場合にもあてはまる。私は五十年にわたり、教師として多くの生徒や学生ないし修行者に接し、彼らのその後を観察してきたが、教師からみて扱いやすい、いわゆるおとなしい生徒や学生には、失敗もないかわりに、目をみはらせるような大仕事もやらず、平凡な人生コースを歩んでいる者が多いようである。これに反して、教師の手に余ったきかん坊や「不良」とみなされた者のなかに、かえって社会に出てから人間的に成長し、世のため人のために目ざましい活動をしている者が少なくない。また偉大な宗教家のなかには若い頃はむしろ「悪人」とみられたものや、五欲七情の熾烈さに身を焼いた人物が多いようである。灰汁の強い人間・五欲七情の旺盛な人間ほど、いったん何か機縁があって翻然として仏道に帰し禅の修行を始めるとその修行振りが猛烈で、したがってその悟りも痛快であり、大きな仏が誕生するものである。世間には「私のような灰汁の強い人間、五欲煩悩のかたまりのような人間は禅の修行などしたとてとても駄目だ、禅の修行にはいる資質はない」と頭からきめてかかっている人があるが、それは全く誤りである。
 芳賀幸四郎著「新刊一行物――禅語の茶掛けー」上巻より          人間禅
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