人間禅道場

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大道無門
        
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大 道 無 門     大道(だいどう)無門(むもん)
 
 「大道無門―大道に門無し」という思想は、すでにはやくからあったと思われるが、この句が禅界に喧伝されるようになったのは、南宋の禅僧無門慧開(1183~1260)が禅書として名高い「無門関」を著し、それに添えた「自序」を
  大道無門  大道 無門       千差有路  千差 路有り 
 透得此関  この(かん)(とう)(とく)せば    乾坤独歩  乾坤に独歩せん
という四言四句の頌で結び、この頌が「無門関」の流布(るふ)につれて人びとに愛誦されるようになってからである。この頌「大道無門」のおおよその意味は、次のようなものである。
 宇宙根本の真理・大道・仏道を体得し、いつも大道に即して生きること、これが人間の理想であり、とりわけ禅者の誓願である。ところでこの真理の世界・大道の聖域に到るには、どこから入ったらよいかというに、「仏語(しん)(しゅう)と為し、無門を法門と為す」で特定の入口はない。仏の説かれた経文の文字言句にとらわれず、それらの言葉を()かれた仏の心・(はら)をズカリとつかむことが何より大切で、ぜひここからでなければ入れぬと
 いうような特定な門はない。「分け登る(ふもと)の路は多けれど同じ高嶺(たかね)の月を見るかな」という古歌もあるように、大道に到達する路はさまざまである。自分の好きな道を選び、どこからでも入るがよい。しかしまた考えてみるに、「大道無門」ということは、入るべき入口がないということでもある。無門ということが、そのまま堅牢な門であり、万重の関鎖である。しかもこの無門の関所はインチキな関所(せきしょ)手形(てがた)、理屈道理や礼拝祈禱などの手形では絶対に透過できない。仏心印(ぶつしんいん)の手形しか通用しない。そして正真正銘のこの仏心印を手に入れるのが禅の修行である。不惜身命で禅の修行に打ちこみ、この仏心印を手に入れ、おかげでこの無門の門を透過できれば、初めて脚実地に大道の聖域に入ることができ、「天上天()唯我(ゆいが)独尊」と大手を振って乾坤に闊歩することができよう。釈迦・達磨とともに手をとって行き、ともに語ることができよう。この人生を自由自在に生きることができよう。無門のこの頌の意味、その眼目である「大道無門」の禅的な意味はほぼ以上のようなものである。                               
 しかし「大道無門」を独立の句として、一般の人びとの立場で解釈する場合には、もっと広くゆるやかに、真理の世界・大道の聖域に到るには、千差路有りで、禅でも念仏でもよい、僧でも俗でもよい、茶道でも剣道でも書道でもよい。要は大道を体得し大道に則して生きようとの誓願を抱いて、自分に適し自分の好きな道に精進することだ。 というくらいにとっておいてよいであろう。
芳賀幸四郎著「新版一行物―禅語の茶掛け  上巻より 人間禅
 
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