人間禅道場

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大巧若拙
        
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大巧若拙  大巧(だいこう)は拙(せつ)の若(ごと)し

「老子道徳経」の第四十五章に「大直若曲、大巧若拙、大弁若訥」すなわち
 大直(だいちょく)は曲(きょく)の若(ごと)く、大巧は拙の若く、大弁は訥(とつ)の若し。
という、いささか逆説を弄したような一節がある。「大巧若拙」という四字はいうまでもなく、これに典拠したものであり、この一節の大意は
 最もまっすぐな人は曲がっているようにみえ、最も技量のすぐれた人は不器用にみえ、最も雄弁な人は口下手のようにみえる。
ということである。今は「大直」「大弁」は棚上げにして、「大巧は拙の若し」だけについて、簡単に私見を述べておこう。
 お茶やお花であれ書や絵であれ、その技量の巧みさがギラギラと表面反射し、傍(はた)の目にその巧妙さがわかる間は、まだまだ若いといわなければならない。しかし修行がようやく円熟してくると、技量の巧みさが表面反射しなくなり、傍の目にもさわやかで、「さすがに見事だ」と感じるようになる。ここまで到れば「達人」の境涯といってよいであろう。しかし、これはまだ「名人」の境涯ではない。まことの名人の境涯というものは、禅のいわゆる「悟了同未悟―悟り了って未だ悟らざるに同じ」という境涯に相当するものである。
 「仏のようでもあり鬼のようでもあり、賢者のようでもあり、愚者のようでもあり、傍からはよくわからず、なんとも手の輪にのらない」というのが、悟了同未悟の境涯であるが、ちょうどそのように、「上手のようでもあり、下手のようでもあり、巧妙のようでもあり、愚拙なようでもあり、なんとも得体(えたい)の知れない」というのが、まことの名人の姿であろう。「大巧は拙の若し」とは、単に「巧みの極致は不器用に似たり」というだけでなく、「真の名人というものは、巧のようでもあり、拙のようでもある…」という意味である。
 およそ東洋の文学論や芸術論においては、たとえば宋(そう)代の詩論や詩話を編集した「詩人(しじん)玉屑(ぎょくせつ)」に「寧(むし)ろ拙なるも巧みなること勿(なか)れ」という語がみえているように、巧妙よりも稚(ち)拙(せつ)を、人為よりも自然を尊重しているが、それは遠くは老子のこの「大巧若拙」に淵源するものと思われる。といって、この「大巧若拙」の境涯は長い年月にわたる修行と鍛錬とによって、おのずから、いつとなく、ようやく到達するものである。それなのに未熟不鍛錬の分際で、形だけ拙をまねて稚拙ぶる者があるが、まことにいやらしい限りである。これはお互い、よくよく心すべきことである。
 なお室町時代の初期、「瓢(ひょう)鮎図(でんず)」などの傑作を描いた相国寺派の画僧・如(じょ)拙(せつ)があるが、その「如拙」は法諱(ほうき)であり、その法号は「大巧」である。すなわち「大巧如拙」が彼の正式な呼称であるがそれはまさに「大巧若拙」に由来しているのである。
芳賀幸四郎著「新版一行物―禅語の茶掛」 上巻より 人間禅
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