人間禅道場

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啐啄同時
        
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  啐啄同時      啐啄(そつたく)同時(どうじ)

 雪峰(せっぽう)義存(ぎぞん)(822~908)の法嗣(はっす)鏡清(きょうしょう)道怤(どうふ)(864~937)という禅僧があったが「啐啄(そつたく)の機」というのがこの鏡清の十八番(おはこ)で、彼はいつも弟子たちに向かって
 凡そ行脚の人は(すべか)らく啐啄同時の(げん)を具し、啐啄同時の(ゆう)(はたらき)有って、(まさ)に禅者と称すべし。母啄せんとして、子啐せざることを得ざれ。子啐せんとして、母啄せざることを得ざれ。
 と垂示していたという。そして「碧巌録」にも「鏡清啐啄の機」の一則が採られている(第十六則)。「啐啄同時」の四字一句はこれに基づいている。
 啐啄という二字は鶏の(ひな)孵化(ふか)する様子から出たものである。親鳥が卵を抱いて二十一日、いよいよ雛がかえる時になると、雛が中から卵の殻をコツコツとノックする。これを啐するという。このノックの音を聞くと、親鳥がこれに応じてまた外から殻をコツコツとつついてやる。これを啄するという。この雛の啐と親鳥の啄との呼吸がピタリと合うと、殻がうまく割れて丈夫な雛がピヨピヨと誕生するが、どちらが早すぎても遅すぎても、まともな雛は生まれないというのである。これは観察の不十分に基づく事実誤認ではあるが、教育の効果をあげるには師弟間の呼吸の合うことが重要だということを説くたとえとして適切だというので、禅家において「啐啄同時」が強調され、次いで一般に教育の要諦としても力説されるようになったのである。
 私は五十年間教育の事にたずさわっているが、その経験を省察してみると、「啐啄同時」ということはたしかに教育の原理であり、教育効果をあげる上の重要な秘訣であると思う。教育効果をあげようとのあせりから、相手の機がまだ熟しておらぬのに「青苗を引き、正蚕(せいさん)を責めて(まゆ)をつくらしめる」愚を演じたこともあり、また相手の機が熟し啐しておるのに、それに気がつかず放ったらかしておいて腐らせてしまった苦い経験もある。まことに申し訳のないことをしたものだと恥じ入っている。しかし啐啄同時のはたらきの必要なのは、なにも教育の上においてだけではない。政治や商売上の折衝においても、あるいは日常の主客の応対や夫婦の間などにおいても、ぜひ必要である。話がいささか俗になるが、酒宴の席などでこちらがまさに「飲みたいナ」と思う一念と、先方のお銚子を取ってお酌をしようという一念とが、いわば啐啄同時でピタリと合致した時は思わず微笑がこぼれ、酒も一段とおいしく話もはずむものである。
 そして「啐啄同時の機」のどこにもまして必要なのは茶席における主客の間においてである。主客のはたらきが啐啄同時でピタリピタリと呼吸が合えば、道具立ては粗末でも、なんとも楽しくよい茶会というべきであろう。肝要なことは心がいつでも・どこでも円転滑脱にいきいきと転ずるように日頃から心を練磨しておくことである。
 
芳賀幸四郎著「新刊一行物―禅語の茶掛け」上巻より      人間禅
 
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