人間禅道場

〒272-0827
千葉県市川市国府台6-1-16
TEL 047-373-7572
●北総線矢切駅徒歩5分
メインメニュー
ブログ
検索
このページをシェア!
ここでブックマーク: Twitter ここでブックマーク: Facebook ここでブックマーク: Yahoo ここでブックマーク: Google
トップ  >  今月の禅語 平成二十七年七月分
洗鉢盂去
        
()()()()   
  洗 鉢 盂 去   鉢盂(はう)を洗い去れ

『無門関』の第七に
 趙州(ちょうしゅう)、因(ちな)みに僧問う、「某(それ)甲(がし)、乍入(さにゅう)叢(そう)林(りん)、乞う,師、指示せよ」。州云く、「粥(しゅく)を喫し了るや、未だしや」。僧云く、「粥を喫し了る」。州云く「鉢盂(はう)を洗い去れ」其の僧、省(せい)あり。
 という一則がある。「鉢盂を洗い去れ」という句は、これから出たものである。「喫茶去」の公案などで名高い趙州和尚のところへ、ある時、一人の僧がやって来て、「私は乍入叢林の者―ほんの駆けだしの未熟な雲水ですが、どのように修行したらよろしいか、一つお教えいただきたい」と、その指示を乞うた。この僧、口では「私は駆けだしの未熟な雲水です」などといっておるが、実は悟りの第一関門は既に透過している僧である。口では卑下しながらも、内心少々得意になっているのである。趙州は「ハハァ、こやつ、少しばかりの悟りを鼻にかけているな」と、その境涯を看破しながらも、何くわぬ顔で、「お主、朝飯はもう食ってきたか、それともまだか」と問うた。 ところで、ここにいう「粥」すなわち飯とは、三度の食事の飯のことではない。悟りのことである。したがって趙州のこの問いは、「お主、悟りを開いておるか、どうか」ということである。この僧、趙州のいう飯が悟りを意味することくらいは心えている。そこで、ここぞとばかり腹を突きだして、「ハイ、食ってきましたとも、このとおりドッサリ食って参りました」と応じた。悟りならもう済ませました。たくさんです」という肚である。本人は鼻をうごめかして大得意なのである。しかしそれだけに悟りの臭みがプンプンしている。「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず。悟りの悟り臭きは上悟りにあらず」といわれるように、悟りが表面反射し、悟りの臭みがただよう間はまだ本当に悟ったのではない。さらに修行を積んで悟りの臭みを抜き去らねばならない。趙州、悟り臭いところでいい気になっているこの僧を憐れんでその病巣にブスリと注射針を打ちこんだのが、この「鉢盂を洗い去れ」の一語なのである。「鉢盂」とは食物を盛る器、いわば飯茶碗のことである。
 そうか、お主もう飯は食ってきたか。飯を食い終わったら、飯茶碗をよく洗っておけよ。ということで「もう悟っているか、ウン、それなら悟りの臭みをよく抜くように心掛けろよ」という、まことに慈悲あふれる親切な注意である。さすがは「口唇皮子(くしんぴす)上に光を放つ」―無造作に寸鉄人をさす金言名句を吐くと評された趙州の手練ではある。そして、この僧、「鉢盂を洗い去れ」の一語に趙州触れて、「省有り」で、自分の境涯の至らなさと、今後どう修行すべきかに、どうやら気がついたというのである。「鉢盂を洗い去れ」の一語、禅の修行者にまことに適切な修行の指針である。しかしそれは単にそれだけにはとどまらない。
 あらゆる芸道の修行者の肝に銘ずべき箴言(しんげん)である。

芳賀幸四郎著「新刊一行物―禅語の茶掛け」上巻より     人間禅
プリンタ用画面
前
今月の禅語 平成二十七年八月分
カテゴリートップ
今月の禅語
次
今月の禅語 平成二十七年六月分