人間禅道場

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心々不異
        
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  心 々 不 異     心々(しんじん)不異(ふい)

 「成仏」すなわち仏になることは、大乗仏教徒の最大かつ最高の願いである。大乗禅の修行の目標もまたこの成仏にあることは、「直指人心、見性成仏」という禅の金看板に徴して明白である。ところで、成仏するとはどういうことであろうか。仏に成るというが、その仏とはいかなるものであろうか。世俗では一般に、人の死ぬことを成仏したといい、死者を仏様とよびならわしている。それは全くの誤りでもないし、また悪いことでもない。しかし、死ぬことが真の成仏であり、死者がまことの仏であるならば、足の痛いのや眠いのを辛抱して、わざわざ坐禅の行などをやるには及ばないであろう。 人間は必ず死ぬものであり、その意味ではやがて仏に成るものだからである。仏や成仏の真義がこれでないことはいうまでもない。また世間には、仏というと寺の須(しゅ)弥(み)檀(だん)上にまつられている偶像、木仏や金仏のことだと思っている人々も多いようであるが、これまた次元の低い見解にすぎない。元来、真の仏とは「火に入って焼けず、水に入って溺れず」で金剛不壊(ふえ)・不生不滅なものである。有名な趙州従?(ちょうしゅうじゅうしん)が「金仏炉を渡らず、木仏火を渡らず、泥仏水を渡らず」と喝破しているように、これらの偶像が真仏でないことはいうまでもない。丹(たん)霞(か)天然(てんねん)が寺の本尊の木仏をかつぎ出してたたき割り、それを焚いて暖をとったことは有名な語り草であるが、これは人々の偶像崇拝の迷妄を打破し、真仏の他にあることを示そうがためにほかならないのであった。 それでは真仏とは何ものであり、成仏とはどうなることであろうか。
 趙州は「金仏炉を渡らず、木仏‥‥」と説いたあと、親切にも「真仏、屋(おく)裏(り)に坐す」すなわち真仏は色気もあれば食い気もあり、切れば血の出るこの五尺の肉体のうちに宿ってござる」と示している。そしてこの「屋裏の真仏」しかも「活仏(いきぼとけ)」を、臨済宗の宗祖の臨済義玄は「心々(しんじん)不(ふ)異(い)なる、これを活祖と名付く」と端的に示している。「心々不異」の四字一行は、「臨済録」にみえるこの一句に基づくものなのである。「活祖」とは「生きている仏祖」の意で、活仏と同じことである。
 だが「心々不異」とはどういうことであろうか。心々不異とは、簡単にいえば念々正念ということである。一条の鉄線が一点の切れ目もなく千里万里と連続し、どこをとっても純粋の鉄で少しの異物もまじえないように公案工夫の時には工夫の一念、念仏の時には念仏の一念、読書の時には読書の一念だけが純粋に持続して、いささかの余念・雑念をまじえないことである。そして毎日毎日朝から晩まで念々正念であり、晩から朝まで心々不異である。しかし実際に坐禅の修行をしてみればわかることであるが、この心々不異、正念の一貫相続ほどむずかしいことはない。少しは雑念がまじっても、せめてこの三十分いや十五分心々不異でいようと努めるがよい。

芳賀幸四郎著「新刊一行物―禅語の茶掛け」上巻より     人間禅
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