人間禅道場

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行雲流水
        
   
 もっともポピュラーな禅語であり、季節に関係なくいつでも使われる句である。表面の意味は「行く雲、流れる水」ということであるが,禅者がこれをよく揮毫するのは,「行雲流水」のように生きたいという願いを、これに託してのことである。だが「行雲流水」のように生きるとは、どう生きることであろうか。

 その一つは,「雲悠々、水潺々」の場合と同じく、雲のように悠々としかも無心に生き、また水にも似て無相で行動すること、あたかも観音菩薩のように時・処・位に応じてその相を千変万化させながら無碍自在に生きることである。

 しかし、禅者がこの句に託するもう一つの願いは、白雲がいつの間にかその形を変え、風のまにまに東へ西へと移動して一つ処に住まることがないように、また水があるいは瀬となりあるいは淵となりながらも、絶えず流れて住まることがないように,「一処不住」すなわち無執着で行きたいという願いである。このような生き方は、浮草のように頼りない生き方と思われるかもしれないが、それはあくまで比喩であって、真のねらいは「何ものにも執着しない、執着を離れる」ところにあるのである。

 私たち人間は仏性を具えながらも、他面では五欲煩悩のかたまりで,死を嫌って生に執着し、金銭に執着し、権勢や名誉に執着し、しかも執着するのあまり、かえってそれらに縛られて身動きができず、迷いに迷いを重ねているのが、悲しい実情である。いっさいの迷いの根源は執着にある、といって決して過言ではない。迷うから脱却しよう・解脱しようというならば、美しいものを美しいと見て、しかもこれに執着せず、おいしいものをおいしいと味わいながら、しかもそれにとらわれずというように執着を離れることである。その意味で、無執着であること「行雲流水」のごとくありたいというのが、禅者のこの句に託する願いなのである。

 禅宗の修行僧を「雲水」と呼ぶのは、一応は彼らがもと行雲や流水のように一処に定住することなく、諸法を遍歴修行して歩いたことから出たものであるが、同時に「無執着であれ」との期待を込めてのことである。
芳賀幸四郎著『新版一行物上巻』より 人間禅
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