人間禅道場

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廓然無聖【かくねんむしょう】
      

 

 「碧巌録」の巻頭第一則に菩提(ぼだい)達磨(だるま)(りょう)の武帝との問答の一則があるが、その問答の第一段、武帝が「朕、寺を建て僧を度す、何の功徳か有る」と問うたのに対し、達磨が「無功徳!!」と突き放したことと、その「無功徳」の真義については、「無功徳」の項ですでに解説しておいた。この「廓然無聖」はそれに続く第二段の問答、「武帝問うて曰く、如何なるか是れ、聖諦(しょうたい)第一義。達磨曰く「廓然無聖」に基づくものである。
 まず武帝の問うた「聖諦第一義」の意味である。有名な
(じょう)法師(ほうし)はその著「肇論」で「この経(大品(だいぼん)般若経(はんにゃきょう))は真俗二(たい)を明らむ。真諦は以て非有(ひう)(色即是空)を明らかにし、俗諦は以て非無(ひむ)(空即是色)を明らかにす。而して真俗不二、これを聖諦第一義となす」と解説している。真諦とは色即是空の空、理すなわち本体、王法に対する仏法、世間に対する出世間の世界のことであり、俗諦とは空即是色の色、()すなわち現象、仏法に対する王法、出世間に対する世間の世界のことだということになる。しかし真諦と俗諦とを背反対立する二つの別個の世界とみるのは誤りで、真諦と俗諦とは一枚の紙の表と裏とのように不二一(にょ)であるとみるのが、正しく円満な見解である。色空一如、理事不二とみるのが正知見であり、これを「聖諦第一義」というのである。
 武帝は仏教の教理にも非常な関心を持ち、自ら「放光般若経」を講じたほどの仏教学者でもあり、「聖諦第一義」の何たるかを理論としては知っていた。しかも、あえて「如何なるか是れ聖諦第一義」と問うたのは、この問いで達磨をギャフンといわせ、「無功徳!!」突き放されて失った面目を取戻し、傍聴の文武百官の前で自らの博識をひけらかそう、という下心もあったかもしれない。それにしてもこの問い、まことに扱いにくい難問中の難問である。この難問をつきつけられて、達磨なんと応対したか。
 端的
直截(じきせつ)を尚ぶ禅の面目まるだしで、即座に「廓然無聖」と応じたのであった。その文字の意味は「日本晴れの青空のようにカラリーとしていて世界の隅から隅までさがしても、有難そうで殊勝げなもの・とくに聖なるものは何一つない」ということである。
 聖諦第一義とは「法華経」の眼目の一つであるところの「諸法
実相(じっそう)」のことである。そしてその諸法実相とは、私達の日常生活の周辺に展開し、私達がいつも見聞しているありのままの相が、そのままで真如法界の実相であるということである。「法華経」に「一切の治生(ちしょう)産業、皆実相と相違背せず」とあるのは、この諸法実相の理を説いたもので、世俗のもろもろの営み、たとえば農婦が牛を()り、商人がそろばんをはじき、漁師が魚をとるのは、いささかも仏法と違背することなく実相そのものである。 達磨がここをにらんで、諸法実相すなわち聖諦第一義の真義をズバリと提示したのが実にこの「廓然無聖」の一語なのである。
芳賀幸四郎著『新刊一行物―禅語の茶掛』上巻より  人間禅()()() /uploads/ckeditor/files/20140806104643.pdf(
  
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