人間禅道場

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一以貫之【いちもってこれをつらぬく】
  
    

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『論語』の「里仁(りじん)篇」に、子曰く、参や、吾が道、一以て之を貫く。曾子曰く、唯。子出づ。門人、問うて曰く、何の謂いぞや。曾子曰く、夫子の道は忠恕のみ。という一段がある。この「一(いち)以(もっ)て之(これ)を貫(つらぬ)く」という四字一行は、これから出ている。この一段の一通りの意味は、
 孔子がある時、弟子の曾参(そうしん)に向かって、「私は生涯にわたりさまざまなことを行じてきた。しかし、根本は終始一貫して変わることはなく、同じである」といった。それを聞いて曾子はただ「唯(い)ⅱ」と応じただけであった。孔子はこの返事を聞いて、黙って講席を立って出ていった。そこでこの講席につらなって両者の問答を見聞していた門人らが、何のことやら腑(ふ)におちないので曾子に「あれはどういうことですか」と問うた。
すると彼が第二義底に下って「先生が、吾が道、一以て之を貫くといわれたその一貫の道とは忠恕ということだ、真心から発する他人への思いやりということだ」と解説した。

ということである。
しかし禅者がこの四字一行を揮毫するのは、これにもう少し深い意味、禅旨をこめてのことである。幕末に出て犠山善来の法を嗣ぎ、明治八年に鎌倉円覚寺に住し、後管長となった方に蒼(そう)龍窟(りゅうくつ)洪(こう)川(せん)宗(そう)温(おん)禅師(ぜんじ)がある。これより先『禅海一瀾(ぜんかいいちらん)』を著したが、その第四則にこの「一以貫之」の句が採られているが、禅師はそこで「一とは数の義に非ず。凡そ道の体(本体)たるや、甚だ言い難し。其の用(ゆう)(作用)たるや、亦測られず。故に強(し)いて唱えて一と曰(い)うのみ。(中略)余、嘗(かっ)って学者に問う。一とは是れ何物ぞ。四大に非ず。五蘊(うん)にあらず。歴然として儞(なんじ)が鼻孔(びくう)裏(り)に現在す。若し道(い)い得て諦(たい)当(とう)ならば、儞に許す、一貫を見ることを。と説いておられる。要するに、孔子の生涯の一切の言行云為(うんい)を貫いたという「一」とは、禅のいわゆる「父母未生以前における本来の面目」、瑞厳和尚のいわゆる「主人公」と別物でないと断言しているのである。禅の「本来の面目」「主人公」を孔子は「一」と名付けたにすぎず、名は異なるが実体は同じものだ、というのが洪川禅師の見解である。そしてこれはまさに至言というべきである。
 なお、この言葉に接して曾子が即座に「唯(い)!」と応じたのは、あたかも霊山(りょうぜん)の説法会において釈迦が一本の金波(こんぱ)羅(ら)華(げ)をスーッと拈じ出した時、迦葉(かしょう)が即座に釈迦の肚を了解し思わず破顔微笑したのと同じで、「ウン、そうか」と納得(なっとく)し合(がっ)点(てん)した動作を示すもので、文字に意味はない。この段で最も肝心なのは「一」の一字である。
 

 芳賀幸四郎著「新刊一行物ー禅語の茶掛け」上巻より 人間禅
 
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