人間禅道場

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没紘琴【もつげんきん】
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 「没」には「無い」という意味がある。「没絃琴」の没もその意味であり、没絃琴とは「絃の無い琴」すなわち「無絃の琴」の謂いである。この語は、元来は、粱の武帝の長子で昭明太子と称された(しょう)(とう)の筆になる「(とう)(せい)節伝(せつでん)」-[桃花源の記]や「帰去来の辞」で名高い陶淵明(365~425)の伝記にみえる故事、すなわち、 陶淵明は音律を解しなかったが、しかも1張の無絃を蓄えていて、酒興がいたると、その絃も無ければ、琴柱(ことじ)も無い琴を持ち出してこれを弾じ、友人らがいぶかると、「ただ琴中の趣を識るのみ、なんぞ絃上の声を(わず)らわさん」といって雅懐をやって興じた。という故事に基づいたものである。それにしても「ただ琴中の趣を識るのみ、なんぞ絃上の声を労らわさん」とは、含蓄の深い明言である。
 およそ絃の無い琴は弾じようにも弾じられず、弾じても鳴るはずもない。心中に湧き起こる感興のおもむくままに無絃の心琴を弾じ、その無音の音を味わうことである。陶淵明の語は、本来はこの消息を述べたものであるが、禅家ではこれを転用して「没絃琴」といい、これにもっと別な意味をこめて使っている。
 釈迦が(りょう)鷲山(じゅせん)における説法会において、一言も発することなくただ一本の金波(こんぱ)()()を聴衆の面前にスーと拈提(ねんてい)した。ひとり迦葉だけが釈迦の拈華(ねんげ)した肚を読み取とりおもわず破顔微笑した。ついに迦葉にその大法を附嘱したという「拈華微笑」の伝承は、皆さんもよくご存知のことであろう。この場合、釈迦が一語も発せず、金波羅華を拈提したのは、いわば没絃琴を奏でたものであり、迦葉がこれを見て破顔微笑したのは、没絃琴の無声の霊響を聞いたものといってよい。 このように、百千万語を費やしても説きえない禅の妙旨を、象徴的に簡潔に提示することを、没絃琴を弾ずるといい、そこにこめられた妙旨を没絃琴の調べというのである。我が国の曹洞禅ではこの「没絃琴」をもっぱら如上の意味に解し、「教外別伝・不立文字」の宗風をあらわす語として用いている。しかし臨済禅ではこれをまた次のように別に解釈しているがこれまたおもしろい。
 この琴長年に弾じたためもはや楽器としての用をなさなくなってしまった。このように使い古した古琴これを没絃琴というのが第2の解釈である。なお滝の絵を描いてそれに「万古無絃琴」と讃を加えたお軸をどこかで拝見しおもしろい讃だなと思ったことがある。ドウドウという滝の音はたしかに太古から今に変わらない大自然の音楽、無絃の琴の音である。この意味に解釈すれば、あえて滝の音に限らず、松風の音も鳥の声もみな無絃の琴の妙音というべきである。没絃琴にこの第3の意味もあることを指摘しておこう。
芳賀幸四郎著「新版一行物―禅語の茶掛  上巻より  人間禅
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