人間禅道場

〒272-0827
千葉県市川市国府台6-1-16
TEL 047-373-7572
●北総線矢切駅徒歩5分
メインメニュー
ブログ
検索
このページをシェア!
ここでブックマーク: Twitter ここでブックマーク: Facebook ここでブックマーク: Yahoo ここでブックマーク: Google
トップ  >  今月の禅語 平成二十六年四月分
  放下着【ほうげじゃく】
  
    

()()(
()( 「放下着」というこの句は趙州従諗が一僧に与えた痛棒の語として著聞するところのものである。この語は「放下着!!」と棒読みするのである。ちなみに「着」の字は「惺々着」の「着」と同じく命令形の助辞で、「放下着」とは「放下せよ、みなきれいサッパリ捨ててしまえ」という意味である。だが、何を放下せよというのであろうか。また放下するとなぜ涼しいのであろうか。

「本来無一物」と語もあるとおり、人間の本心・本性(しょう)・仏性なるものは、元来、天真無垢(むく)・浄裸々 赤洒々なものである。しかし現実の人間はその仏性を煩悩妄想の垢(あか)でよごし、こざかしい思慮分別の塵で覆って、迷いに迷いを重ね、けがしているのが実情である。この迷いの塵垢を払拭(ふっしょく)して無垢清浄な仏性を輝き出させること、換言すれば転迷開悟の実をあげること、これが禅の修行の第一段階である。しかし、わずかの修行では、悟れば悟ったで鼻もちならぬ悟りの臭みがのこるもので、これでは「味噌(みそ)の味噌臭きは上味噌にあらず。悟りの悟り臭きは上悟りにあらず」といわれるように真の上悟りではない。そこでさらに修行に修行を積んで悟りの臭みをぬき、ついに迷いはもとより悟りをもきれいに忘れはてたサッパリした境涯にまで、自己を磨きあげていく。

 禅ではこの迷悟両忘の境涯を、すべてを放下し「本来無一物」のところに還帰したという意味で、これを無一物の境涯といい、大いに貴ぶのである。この境涯まで到達すれば、人間形成は一応目標を達したといってよいであろう。前置きが少し長くなったようであるが、「放下着」の因縁は、実はここから始まるのである。

 ある時、趙州和尚のところに、のちには厳(げん)陽(よう)尊者とあがめられた一人の僧がやってきて、「一物(いちもつ)不将来(ふしょうらい)の時如何」と問いを発した。「私は、迷いはむろんのこと、教理教相の学問も、ありがたそうな悟りもきれいに忘れはて、無一物の境涯に到りえました。この上はどう修行したらよろしいでしょうか」と、表面謙遜したような態度で、無一物を看板にしながら、しかも内心得意で出てきた。無一物などと口にしていることがすでに、まだ無一物に執着し、その実境涯をえておらぬことの何よりの証拠である。彼はまだ無一物にこだわり、これをかついでいるのである。趙州はとっさにそこを見ぬいて、いきなり「放下着!!」とあびせかけたのである。しかし彼には趙州の肚がわからなかった。そこで口をとんがらせて、「すでに無一物、私にはもう捨てるものは何もありません」と応酬した。そこで趙州「そうか、それならドッサリかついで行くがよい」と皮肉な逆説法に出た。この一語に触れて、厳陽は「あっ、そうか」と大悟徹底したということである。一切を放下しきった無一物の境涯、これこそまさに清涼の極致というものである。

(芳賀幸四郎著「新版一行物―禅語の茶掛 上巻より   人間禅) 
 
プリンタ用画面
前
今月の禅語 平成二十六年五月分
カテゴリートップ
今月の禅語
次
今月の禅語 平成二十六年三月分