人間禅道場

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 施無畏 
  
      
   

  通称「観音経(かんのんぎょう)」、正しくは「妙法蓮華経觀世音菩薩普門品(ふもんぼん)第二十五」に、()(かん)()(おん)()(さつ)()()(さつ)怖畏(ふい)急難(きゅうなん)の中に於いて、()無畏(むい)(ほどこ)したまう。是の故に此の娑婆世界、皆な之を号して施無畏者と為す。とあり、観世音菩薩を「施無畏者」と称することは、ご存知の方も多いことと思う。だがそれにしても「施無畏」「無畏を施す」とはどういうことであろうか。まず「無畏」とは何の()いであろうか。これについて参考になるのは「毘婆沙(びばしゃ)論」の三十一の一節である。いささか教理に堕するきらいはあるが、あえて引用すると、
 問う、何の故にか無畏と名づくるや、無畏とは是れ何の義ぞや。答え、怯弱(きょうじゃく)ならざる義、是れ無畏の義なり。傾動せざるの義、勇猛の義、安穏の義、清浄の義、鮮白の義、驚怖せざるの義、是れ無畏の義なり。
 という一節である。 無畏とは、要するに、宇宙根本の真理・如是法をよく悟り、それ故にゆるぎない自信を確呼(かくこ)として抱き、人生の万般に処していささかの疑念も不安もなく、一点の恐怖の念もないことである。絶対の真理を把得しているという大自信から()き出る真の勇気の謂いである。ところで衆生は生死一如(いちにょ)であることを知らず、いたずらに生に執着して死を恐れ、「幽霊の正体見たり枯尾花」という(ことわざ)があるが、まさにそのように自分で作りだした幻覚や迷信におびえ、いつも不安にさいなまれ、おどおどしているのが実情である。この衆生をあわれんで、観世音菩薩は「無畏を施す」のであるが、その「施無畏」とはまず真理を説いて無智に由来する不安を除去してやり、次に自信を与えて不安の思いを払拭し、さらに何ものをも恐れぬ勇気を湧き立たせて、人生万般のことに堂々と対処する生き方に導いてやることである。 この「施無畏」を自らの使命と観じ、これを実地に行じて、自ら観世音菩薩となって 生きること、せめて一歩でも半歩でもそれに近づこうと願ってつとめることこそ、まことの宗教家の生き方でなければならぬのであるが、今日、そのような宗教家のなんと少ないことであろうか。 ともあれ、「施無畏」の三字一句こそは宗教の宗教たる原点である。現在の宗教家、わけても禅者は出家と在家とを問わず、この原点に立ち戻って反省し、その使命に目覚めるべきである。 
芳賀幸四郎著『新版一行物―禅語の茶掛―』上巻より   人間禅()
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