人間禅道場

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主人公
 
 
 
 
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  この「主人公」という三字一句は「惺々(せいせい)(じゃく)」と同じく「瑞巌主人公」という公案(無門関第一二則)すなわち
(ずい)(がん)(げん)和尚、毎日、自ら主人公と喚び、また自ら応諾す。すなわち曰く、惺々着、(だく)。他時異日、人の(まん)を受くること莫れ。諾々。」から出ている。
 この瑞巌師彦(しげん)は「徳山の棒」として知られる徳山宣(とくさんせん)(かん)法嗣(ほっす)(がん)頭全奯(とうぜんかつ)に嗣法した大徳であるが、一山の住持となってからも、毎日幾度もこのように自ら問い自ら答え、自分で自分に警策を加えて正念相続につとめていたのである。 だがそれにしても、言うところの「主人公」とは何ものであろうか。それをつかむのに参考となるのは「徒然草」の第二百三十五段の
 「ぬし()有る家には、すずろなる人、心のままに入りくる事なし。あるじ()なき所には、道行き人みだりに立ち入り、狐・ふくろうやうの物も、ひと()()かれねば、所えがほに入り住み、こだまなど云ふ、けしからぬかたちも現るるものなり。(中略)心にぬし有らましかば、胸のうちに、若干(そこばく)のことは入りきたらざらまし。」という一文である。
 兼好はまず、家主が不在で空家のままにしておくと、行きずりの人や盗人がみだりに入りこみ、さては狐狸が棲みつき妖怪変化(へんげ)なども現われるようになると述べ、心の場合も同様で、「心の主」が留守であるとあられもない雑念妄想がわがもの顔に心中に湧き起こり、のさばるものだと説いている。 兼好が「心の主」と名付けたもの、それを瑞巌は「主人公」とよんでいるのである。ここにいう「主人公」とは、悟りの当体であるところの「父母未生以前における本来の面目」のことである。瑞巌はこの意味での「主人公が留守になっていないか、真実の自己健在なりや」という肚で「主人公居るか、留守になっておらぬか」と自らによびかけ、「ハーイ、居るぞ」と自答し次に「居るには居っても居眠りしていたり、ボンヤリしていたのでは駄目だぞ。ハッキリ目をさまして居れよ」という意味で「惺々着!!」と自らに警策を加え、「よーし、承知した」と自ら返事していた。そしてさらに「将来とも、真実の自己以外のもの━他人はもとより五欲煩悩やその対象である万縁万鏡にたぶらかされるなよ」、言いかえれば「いつでも、どこでも真実の自己として生きろよ」と自らをいましめ、「承知、承知」と返事していたのである。これはまさに禅者の悟後の修行のあり方の活模範というものである。   芳賀幸四郎著『新版一行物―禅語の茶掛―』上巻より   人間禅
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