人間禅道場

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   黙     (もく)


  
      
   



 黙とはふつうには沈黙の黙で、だまる・口をつぐむ・無言という意味である。しかし、禅の黙とは、問われて答えに窮しての無語、試験の問題に解答ができずに提出する白紙答案のような空虚な沈黙ではない。それはまた語に対する黙でもない。それはあたかも「 趙州(じょうしゅう) の無」が有無を超越した無、絶対無であったように、語と黙、言と不言とを超越した絶対の黙である。「その声、雷の如し」といわれる「 維摩(ゆいま) の一黙」の「黙」である。したがって、この「黙」を解説するには、「維摩経」の「 (にゅう) 不二(ふじ) 法門品(ほうもんぼん) 第九」に出ている維摩居士と 文殊菩薩(もんじゅぼさつ) らとの問答の経緯を略説するのが、か えって近道というものであろう。
 
 維摩居士が 病気をされたと聞いて、釈尊は病気見舞いに赴くよう命じ、文殊菩薩が法自在菩薩ら三十一名の菩薩とともに、名代として見舞いに赴くことになった。一行(いっこう)が維摩の方丈に着くや否や、病気だという維摩居士から、いきなり「(もろもろ)仁者(ひとびと) よ、いかんが菩薩は不二法門に入るや。各々楽しむ所に随って之を説け」という注文が出された。そこでまず法自在菩薩から始めて三十一名の菩薩がそれぞれ、入不二法門についての自らの見解を呈することになった。だが、その不二の法門とは何のことであろうか。

 およそ私達の生きている現実の世界は自と他・主観と客観というようにすべてが相対的に対立している二元的な世界である。そしてこの二元相対の相を確固不動のものと思いこみ、これに執着するので迷いが生ずるのである。迷いを脱却するにはそれらは執着するにあたいしないものであることを知ることが必要である。相対未分以前の世界に出抜けることが必要である。「不二の法門に入るや」とは「あなた方はどう悟ってござるか、自らの悟りを説き示して下され」という要請なのである。

 この維摩の問いと要請とに応じて、三十一名の菩薩がそれぞれに見解を呈し終り、いよいよ文殊がその見解を 披歴(ひれき) する番となって、文殊は「我が意の如くんば、一切の法において無言・無説・無示・無識、諸の問答を離る、是を不二法門に入るとなす」と、その見解を述べた。これは「この不二法門なるもの・悟りの世界なるものは、言語道断なもので、何とも説きようもなければ知らせようもないものだ」という意味であり、智慧文殊だけあって、不二法門をよくつかんでいる。しかし「何ともいいようもない、説きようもない」と説いたところに、文殊の 瑕瑾(かきん) (玉にきず)がある。さて、こう見解を披歴した後、文殊は維摩に向かって、「私どもみなそれぞれ見解を呈し終りました。この上は居士の見解をうかがいたいものです」とその見解を求めた。ところが「維摩ここにおいて、黙 (ねん) として言なし」でしばらくの間、黙然としているだけで一語も発しなかった。これを見て文殊「是真に不二の法門に入る」と讃嘆してやまなかった・   

 芳賀幸四郎(人間禅師家・如如庵洞然)著 『新版一行物―禅語の茶掛者―』より
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