人間禅道場

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思無邪 思い邪(よこしま)無し       (
    
   
 

()() 中国最古の詩篇であり、「書経」「(   えき   )(   きょう )  」「礼記(らいき)」「春秋」とならんで、「五経」の一つに数えられている「詩経」の「魯頌(ろしょう)」の「(  けい  )篇」に「思 邪無し、馬斯徂(ばしそ)を思う」とあるのが、此の一句のそもそもの原処である。「魯頌」における本来の意味は、「魯の(    )公が周公の子伯禽(  はくきん  )の法に少しの邪念もなく従った」ことをさすのである。しかし、のちに「詩経」を刪定(さくてい)したといわれる孔子が
 詩三百、一言を以て之を(おお)えば、曰く思い( よこしま )無し(「論語」「為政篇」)
と説いてから、この句が大いに人口に膾炙(かいしゃ)するようになった。しかも僖公の故事とは関係なく、「詩経」三百篇の詩の本質をよく道破した語として理解されるようになった。孔子がこういったのは、
詩経には三百余篇の詩があっていろいろの素材がさまざまに詠ぜられているが、どの詩もみな作者が自らの素朴で純粋な心情を飾ることなく、ありのままに無邪気に表現したものである。天真流露で文字どおり無邪気なこと、それが三百余篇の詩すべてにあてはまる特徴でありその本質である。
という肚であった。しかし、後世の儒者はあまりにも道徳に執着し、この「邪」を正善の心意の対語としての邪悪の念慮と狭く窮屈にとり、そのため正邪善悪にこだわりすぎて、かえって孔子の真意をとりにがしているように思われる。
「思い邪無し」が、心中に一点の邪悪の念もない、人々を邪悪に導く煩悩妄想が影をひそめた状態をいうことは、むろん、儒者の説のとおりである。しかしそれだけなのではない。 悪を捨てて善をとり、邪を憎んで正に就き、醜をきらって美を愛するというような、相対的な取捨分別の念慮のないこと、また自己を飾って大きく見せようとか、上手にやろうなどという作為の念慮もないこと、これが「思い邪無し」の真義なのである。 逆にいえば、「万里 片雲無し」というように正念正想で一点の雑念妄想もなく、善悪・正邪・曲直・美醜などにこだわる取捨分別の心を超克して、しかも善いものは善い、醜いものは醜いと判断していささかのまぎれもなく、かつ、あたかも嬰児(えいじ)のように無邪気で天真爛漫で、こざかしい作為の念慮のないこと、それが孔子のいうところの「思い邪無し」の本当の意味である。
この本当の意味での「思い邪無し」の境涯に到達し、そこに生きること、これが人間形成の目標であり、悔いのない生き方というものである。そこに脚実地に到ることは容易なことではないが、しかし趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)南泉普(なんせんふ)(   がん)   らはもとより、布袋( ほてい )和尚や越後の良観和尚(1757~1831)など、そこに到達し、そこで遊戯( ゆげ )した先達は決して少なくはない。身のほど知らずと笑われるかもしれないが、そこまで至りたいものだと願っている。
  芳賀幸四郎著『新版一行物―禅語の茶掛―』上巻より    人間禅
 
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