人間禅道場

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閑古錐     (

 
 
   
 
  禅の修行がどういうものかについては、修行の段階ないし境涯の向上という角度から説明すれば、およそ次のようになるであろう。すなわちその第一の段階は、坐禅の行によって三昧力を深くやしない、その三昧力によってこの身ながらに相対未分以前の世界・絶対界に入り、自己に本来円満に具有している仏性(本来の面目ともいい、主人公ともいう)を徹見し把得(はとく)することである。これがいわゆる見性入(けんしょうにゅう)()で、これで悟りの第一関門を透過したことになる。
 第二段階の修行は悟後の修行といわれ、徹見し把得した仏性・本来の面目を法乳をもって丈夫に育て上げ、悟りをいよいよ深めていく段階である。その結果、道(げん)が次第に明白になり、道力が熟して、自主独立の人格が確立し、万縁万鏡にキビキビと対処してあやまりなく、「随処に主と()」って殺活自在にはたらき、ついには「論語」のいうところの「心の欲するところに従えども(のり)をこえず」という境涯、禅のいわゆる見性悟道の境涯に達することである。儒教の人間形成はこの辺で終りであるが、禅の修行はここが終点でなく、さらに上がある。
 およそ「味噌(みそ)の味噌臭きは上味噌に非ず、悟りの悟り臭きは上悟りに非ず」といわれるが、これは至言である。見性悟道境涯はいうべくして容易に到達しがたい高い境涯であるが、そこにはなおわずかながら悟りの臭みがただよい、「ああすべからず、こうすべし」という越えてはならない「(のり)」・規範の意識がのこっている。その限り、この境涯は至上のそれではない。禅の修行の第三の段階は、この悟りの臭みを完全に抜き去り、規範の意識を忘れる修行である。そしてついに迷いはもとより悟りの臭みもきれいに抜け、規範も威儀もすっかり忘れはてた「迷悟両忘」、()(りょう)(どう)未悟(みご)の境涯に到達する。これを禅では見性(りょう)了底(りょうてい)の境涯ともよび、また「愚の如く、()の如き」「役立たず」の境涯ともいう。ここに到って、かっての「斬釘截(ざんていせっ)(てつ)」「截断(せつだん)衆流(しゅうる)」(衆流とは万縁万鏡、万物のこと)とかいう鋭利な機用(きゆう)(働き)は全く影をひそめ、鋭いのか鈍いのか、賢者なのか愚者なのか、仏なのか凡夫なのか、世間の眼にはサッパリわからなくなってしまう。自己の人間形成という自利に限っていえば、これが禅の修行の到達目標である。
禅ではこの境涯を「破沙(はさ)(ぼん)」・「()草鞋(ぞうあい)」・「(ろう)(げつ)の扇子」とともに閑古錐の境涯ともいうのである。鋭利な機用が影をひそめ、無用の長物になってしまった」という点に着目してこれを「閑古錐」にたとえ、この境涯を閑古錐の境涯ともいうのである。ちなみに閑古錐とは「大閑(おおびま)のあいた古錐(ふるぎり)」という意味で、長年にわたって使いに使ったため、錐の生命であるきっさきの鋭さが失われて円くなってしまい、もはや錐としての役に立たなくなった古錐のことである。禅語として何を意味するかわかっていただけたことと思う。 以上
芳賀幸四郎著『新版一行物-禅語の茶掛‐上巻』より      人間禅
元東京教育大学教授
元大東文化大学教授  文学博士  平成八年没
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