人間禅道場

〒272-0827
千葉県市川市国府台6-1-16
TEL 047-373-7572
●北総線矢切駅徒歩5分
メインメニュー
ブログ
検索
このページをシェア!
ここでブックマーク: Twitter ここでブックマーク: Facebook ここでブックマーク: Yahoo ここでブックマーク: Google
トップ  >  今月の禅語 平成二十四年六月分
学貧()    (ひん)(がく)
            

 日本曹洞宗の宗祖・永平寺の開山・()(げん)道元(どうげん)(1200~1253)を(ひと)通り知りたいという方々には「正法眼蔵隋聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」を読むようにお勧めしている。ちなみにこの書は、弟子の()(うん)()(じょう)が道元の法話や夜話を「聞くに随って筆録」したもので、論理も明快で文章もわかりやすく、道元の人間像と思想とがそこにいきいきとよく出ているからである。

 ところでこの「正法眼蔵隋聞記」を読むと、道元が弟子たちに対して、くりかえし訓戒し力説したことの一つが、この「学貧」の二字、「学道は先ずすべからく貧を学すべし」ということであったことが知られる。すなわち禅の修行者の心がまえの第一は「財宝を(むさぼ)らぬこと」だと説き、「いまだ財宝に富み、豊にして仏法を行ずるとは聞かず。皆よき仏法者と云うは、或は()(のう)()(じょう)乞食(こつじき)なり」といい、「身を捨てて貧人なること」これが禅門の特色、「宗門の家風」だと強調し、「学道の人は先ず(すべか)らく貧なるべし。財多ければ必ず其の志を失う」といましめている。

 また、臨済宗(よう)()派の派祖(よう)岐方会(ぎほうえ)堂宇(どうう)の修理を勧める役僧の意見を、「堂宇の造作によりて僧衆悟り得べくんば、金玉を以ても造るべし。悟りは居所の善悪にはよらず、只坐禅の功の多少にあるべし」といって退(しりぞ)けたという逸話を挙げ、その後に(りゅう)()()(どん)の「学道は先ず須らく(しば)らく貧を学すべし。貧を学し貧にして後、(みち)(はじ)めて親し」という語を引いている。さらに「学道は先ず須らく貧を学すべし。名をすて利をすて、一切(いっさい)(へつ)らふことなく、万事投げすつれば、必ずよき道人となるなり。大宋国によき僧と人にも知られたる人は、皆貧窮人なり。」ともある。
 道元がいかに「学貧」を強調したかは以上で明らかであるが、その理由は一つには名利の欲を離れることが出家の本懐であり、二つには貧を学すれば期せずして、貪瞋痴(どんじんち)の三毒から解脱できるからである。裏からいえば、財宝の豊かなことが道心を失い、修行の退転する契機になりやすいからである。しかもここで注目すべきことは、道元が貧者であることにいささかも卑下の念を抱かぬばかりか、むしろかえって矜持(きょうじ)さえもっていることである。これはなぜなのであろうか。
 禅の最も古い古典の一つの(よう)()(げん)(かく)の著「(しょう)道歌(どうか)」に

 窮釈子 口称貧       窮釈子(ぐうしゃくし) 口に貧と称す

 実是身貧道不貧       実に是貧にして、道貧ならず

 貧即身常被縷褐       貧なれば則ち身は常に(つねに)縷褐(るかつ)()

 道則心蔵無価珍       道あれば則ち心に無価の珍を(おさ)

という四句一聨がある。その大意は
  私は釈迦の貧乏な弟子である。但し口で貧乏だといってはおるが、ただの貧乏人とはわけがちがう。身なりはたしかに貧しく粗末ではあるが、それは外見上のことだけで、道そのものは貧でも何でもない。中身まで、心まで貧しいわけではない。貧乏だから身にはいつも縷褐(ぼろ)着物をまとっているが、仏道を体得し、したがって心には何ものにも換えがたい無上の宝物をひそめているのだ。私は外見上また物質的にはたしかに貧乏人だが、精神的にはまことに富貴である。

ということで、永嘉玄覚が禅者としての自信と矜持とを堂々と披歴(ひれき)したものである。そしてそれはそのまま、道元の場合にも通ずることである。道元が学すべしといった「貧」は、まさにこの「身貧にして道貧ならず」という貧、「破襴(はらん)(さん)()に清風を()る」という貧なのであった。

『新版一行物-禅語の茶掛-』芳賀幸四郎著より        人間禅
)げん()()()()
プリンタ用画面
前
今月の禅語 平成二十四年七月分
カテゴリートップ
今月の禅語
次
今月の禅語 平成二十四年五月分