人間禅道場

〒272-0827
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TEL 047-373-7572
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看脚下     脚下(きゃっか)()

 
 
   
 「看脚下―脚下(きゃっか)を看よ」とは、「照顧脚下―脚下を照顧(しょうこ)せよ」と同じ意味である。禅寺の玄関などによくこの三字あるいは四字を書いた木札が置かれているものである。「足もとに気をつけて、履物(はきもの)をキチンとそろえよ!」という注意である。お茶席ではなかなかお行儀がよいのに、便所の履物となると散乱させて一向に意に介さないお茶人の多いこの頃、私は玄関よりも便所にこそ「看脚下」の木札をドッカとうちつけておきたいと思う。しかし「脚下を看よ!」とは、単にこのような意味での「足もと御用心」の意味ではない。 「看脚下」の一語が、禅林において一躍喧伝されるに至ったのは、名高い因縁がある。臨済宗中興の祖と仰がれる()祖法(そほう)(えん)には、五祖下の三仏と称された仏果圜(ぶっかえん)()(克勤)・仏鑑慧懃(ぶっかんえごん)(ぶつ)(げん)(せい)(おん)の三人の弟子があった。ある夜、この師弟四人が山内の亭上で夜話していたが、いざ帰ろうという段になって燈火が尽きて、あたり一面まっ暗になってしまった。すると早速、五祖が弟子の三人に対し、この場に処しての各自の見()を呈してみよと迫った。
 そこで仏鑑は「彩鳳丹霄(たんしょう)に舞う」、物のあやめもわからぬ黒暗々のところが、そのまま明白々だと応じ、仏眼は「鉄()古路に横たわる」、道荒れて行人を絶す、すなわち没消息だと呈した。どちらも禅旨にかなった立派な見解ではあるが、やや法理的で如来禅に傾いて禅機の乏しい恨みがある。これに対して圜悟がズバリと呈したのが、「脚下を看よ!!」のこの一語なのである。この一語には祖師禅の活溌々地な禅機がみなぎっている。そこをみて五祖は「吾が宗を滅す者は(すなわち)(こく)(ごん)(圜悟)のみ」と逆説的にこれを称揚したのであった。たしかに、この場においては「脚下を看よ!!」にまさる生きた見解はなく、まさに空前絶後の名せりふである。
 なお鎌倉時代の巨匠()(ほう)(かく)(みょう)(1271~1361)に対し、ある僧が「如何なるか是れ祖師西来意」、「禅宗の極意とは如何なるものか」と問うたところ、弧峰がすかさず「脚下を照顧せよ」と示したと、その伝記に出ている。「禅の極意というものは、お主が予期しているような深遠玄妙なところにあるのではない、平凡尋常なところ・脚下にある。着衣喫飯・一挙手一投足、みなこれ禅の極意と別ではなく、落花も蝉声(ぜんせい)もことごとく祖師西来意を洩らしているワイ。よそに向かって求めず、自己に向かって求めよ」という肚である。そして「永平道元が「仏道は人々の脚踉下(きゃくこんげ)にあり」と説いているのも、また儒教のほうで「道は近きに在り」と強調し、「これを遠きに求める」愚をいましめているのも、同じ肚である。「道は脚下に在り、故に脚下を看よ!」とはまことの至言であり、お互いの座右の銘とするにふさわしい(しん)言である。    

 芳賀幸四郎著『新刊一行物―禅語の茶掛』上巻より    人間禅
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