人間禅道場

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両忘    (りょう) (ぼう)

 
 
 
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 「両忘」の二字は「りょうぼう」あるいは「りょうもう」と読み、「(ふたつ)ながらともに忘れる」というのが、その一通りの意味である。だがその「両つ」とは何をさすのであろうか。その「両つ」を何と何にとるかによって、高低二つの解釈が成立する。
 私たちの日常経験している世界は、すべて相対の世界である。大小・高低・左右・前後・男女・老幼・是非・善悪・さらに自他・賓主・主観と客観というように、すべて相対している世界である。両忘とはこれらの一切の相対を忘れるということである。
 しかし、ここで「忘れる」とは、それらの差別を無視し否定することではない。相対未だ分れない以前の場に立つことである。両忘とは念仏の場合には、「唱うれば仏も我も無かりけり」というように、念ずる我と念ぜられる仏とが不二になり、点茶の場合には茶筅を持つ我と持たれる茶筅とが一如となり、書の揮毫の場合には自己と筆とが一体となるというように、主体(能見(のうけん)の我)と客体(所見(しょけん)の彼)とが不二一如になりきること、言いかえれば主客両忘・能所双忘の三昧境に入りきることである。
 ところで、この主客両忘の三昧境に入らなければ、ついに対立相対の世界をウロウロするだけで、決して絶対の世界には入れず、したがって悟りは開けない。坐禅して悟りを開きたければ何をおいても、この主客両忘の三昧境に入りきることである。
 さらに高次な意味は「迷悟両忘」ということである。およそ禅の修行の第一段の目標は、毎度申すとおり、迷いを転じて悟りを開くことであるが,悟りを開くとこんどはその悟りに執着して悟りにしばられ、言うこと()すこと悟り臭くなるものである。
しかし、「味噌の味噌臭きは上味噌に非ず、悟りの悟り臭きは上悟りに非ず」といわれるように、悟り臭い間はまだ本物ではない。そこでさらに修行を積みに積んで悟りの臭みを次第に抜き、ついに迷いはもとより悟りもきれいに忘れはてた境涯、迷悟両つながら高く超越した真の脱洒自在の境涯にまで到達せねばならない。これがまことの生き仏の境涯であるが、これを迷悟両忘の境涯ともいうのである。高い意味での両忘とは、この迷悟両忘の謂いである。 悟りの臭みがただよう間は禅者として本物ではない。強さが表面反射し、ないし強さがそれと外にわかる間はまだ真の剣客ではない。巧妙さが表面に出る間は、茶人として書家としてなお未熟で、せいぜい達人にすぎない。悟っているのかいないのか、賢いのか愚かなのか、強いのか弱いのか、上手なのか下手なのか外からはサッパリわからぬ「迷悟両忘」の境涯に到って、初めて真の禅者・名人というものである。お互い禅の道において修行を積みに積んで、どうぞして生きている間にこの境涯まで至りたいものである。せめて一歩でも半歩でも、そこに近づきたいものである。

 芳賀幸四郎著「新刊一行物―禅語の茶掛―」上巻より
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