人間禅道場

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無心  むしん
 
 
() 「無心」にはいろいろな意味がある。無遠慮に、あつかましく強引(ごういん)に、他人に金品をねだることをいう場合もあるし、何も考えずポカーンとした心の空白な状態、一種の痴呆(ちほう)恍惚(こうこつ)の状態をさしていう場合もある。また西行(さいぎょう)法師の「心無き身にもあはれは知られけり (しぎ)たつ沢の秋の夕暮」という歌の場合のように、粗野でもののあわれを解しない心という意味に用いられることもある。
 しかし禅語としての無心は、むろんこれらの意味ではない。およそ心がはたらいているということは、生きている証拠であり、人間生きている限り、心は絶えずはたらいているものである。 それなのに「心のはたらきが無い」という文字のこの「無心」の二字を珍重するのは、なぜであろうか。禅でいうところの無心とは、どういう意味であろうか。といって、それにもいくつかの側面がある。
 第一は五欲煩悩に基づく賤劣な邪念・邪心のないことであり、第二は思慮分別に基づいたこざかしくあれこれと造作(ぞうさ)する心のないことである。 心はたしかに絶えずはたらいてはいる。しかしその心を満たしているのは正念・正想だけである、ということである。 しかも、この上にさらに一段高い第三の意味がある。修行に修行を積み、練磨に練磨を重ねた結果、心のはたらきがいつか大自然のはたらきと同じようになり、あたかも赤ん坊のように、文字どおりに無邪気で天真爛漫になることである。これが無心の真意である。
 そしてこの真の無心の境涯を人格化したもの、それが布袋(ほてい)和尚なのである。この布袋和尚の境涯、真の無心の境涯に到達すること、それが禅の人間形成の目標であるが、それはまた茶道はもとより、剣道・書道など、いやしくも「道」と自負するあらゆる芸道の目標であるべきであろう。 「無心」の二字、どうぞ、深く味わっていただきたい。

芳賀幸四郎著『新刊1行物-禅語の茶掛』上巻より
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