人間禅道場

〒272-0827
千葉県市川市国府台6-1-16
TEL 047-373-7572
●北総線矢切駅徒歩5分
メインメニュー
ブログ
検索
このページをシェア!
ここでブックマーク: Twitter ここでブックマーク: Facebook ここでブックマーク: Yahoo ここでブックマーク: Google
トップ  >  今月の禅語 平成二十五年三月分

無着  むじゃく
 
 
 
 「()(じゃく)」と読み、「無著」とも書く。紀元四世紀にインドに生まれ、瑜伽(ゆか)唯識(ゆいしき)の教義を大成した高僧に無着という人物がある。世親(せしん)の兄で、鎌倉時代に仏師運慶(うんけい)によって造顕されたその木像が奈良興福寺の北円堂に祀られていることは、ご存知の方も多いと思う。 また「碧巌録」の大成者であり、「流れ圜悟」の墨蹟の筆者として名高い(えん)()(こく)(ごん)(1063~1135)の法号が「無着」であること、江戸時代に出て「禅林象器箋(しょうきせん)」という書を著した妙心寺派の僧に無着(どう)(ちゅう)(1653~1744)のあることも、ご承知かもしれない。しかし、ここに掲げた「無着」はむろんそのような人名のことではない。この「無着」の二字がすこぶる深い宗旨と高い境涯とを意味する佳句なので、先人がこれをとって自らの法号としたのである。では、それは本来どういう意味であろうか。
 無着とは「着無し」ということであるが、その「着」とは執着(しゅうじゃく)のことである。人間の一切の迷いというものは、つまるところ執着から起こるものである。金銭や地位や権力に執着し、美しい・おいしいといってはこれに執着し、それを失うまいと身心を労しているのが人間の(さが)である。 迷いとは畢竟(ひっきょう)、第二義・第三義のことに執着して根本第一義を等閑(なおざり)にし、末に執着して本を忘れることである。だから迷いを転じて悟りを開きたいというならば、何よりもこの執着する心を退治し、「無着」となることである。無着ということの真意は、以上でおよそおわかりいただけたことと思うが、それに関連して誤解のないように願いたいことがある。 無着ということは、美しい・おいしい・よいからといって、それに執着したり、とらわれたりしないことであるが、美しいもの・おいしいもの・よいものを美しい・おいしい・よいと受けとらぬことではない。あたかも明鏡がその前に来たものを正しく写しとるように正しく受けとり、正受しながら、しかもそのものが去れば元の清明に還って少しの痕跡ものこさぬように、不受(ふじゅ)なことである。 正受しながらしかも執着しないこと、これが無着の真意である。無着ということは大乗仏教とりわけ禅道の極意であるだけに、これを別な文字で、あるいは自然現象などをかりて表現した禅語はかなり多い。「無住」「無所住」などもそれに近く、「清風動脩竹」「厳松無心風来吟」などがそれである。

 芳賀幸四郎著『新刊一行物―禅語の茶掛』上巻より
                                         人間禅
 

 
プリンタ用画面
前
今月の禅語 平成二十五年四月分
カテゴリートップ
今月の禅語
次
今月の禅語 平成二十五年二月分