人間禅道場

〒272-0827
千葉県市川市国府台6-1-16
TEL 047-373-7572
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無隠  むいん()
  
             
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 この二字は「論語」の述而(じゅつじ)篇に「孔子曰く、二三子、我を以て(かく)せりと為すか。吾、(なんじ)に隠すなし。吾、行うとして二三子と(とも)にせざるは無し。是れ(きゅう)なり」とあるのを要約したもので、「むいん」と読んでも、「隠すなし」と読んでもよい。この一章の眼目は、いうまでもなく「吾、爾に隠す無し」にある。 江戸時代に出た有名な儒者荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666~1728)はこの一章を 
  孔子の教育法は、彼自らが「憤せざれば啓せず、()せざれば発せず、一隅を挙げて三隅を以て反せざれば、即ち(ふたた)びせざるなり」といっておるように、いわゆる硬教育で、四つのものなら一つだけ説き示して、残りの三つは努力して自ら発明させるというやり方であった。そこで、それについていけない弟子たちは、「師匠はわれわれに隠している」と考え不平をいった。それに対して孔子は「ワシはお主らに少しも隠したり秘密にしたりしてはおらぬ」と答えたのである。
と解釈している。 これでむろん一応解釈はつくし、筋も通っている。しか
し禅者が「吾 爾に隠すなし」の一語を珍重し、これを「無隠」の二字に圧
縮して揮毫するのは、これにもっと深い意味を託してのことなのである。 幕末に出て()山善来(さんぜんらい)(1802~1878)の法を継ぎ、儒仏一如の立
場から「禅海一瀾」を著し、明治になって円覚寺派の管長として護法運動
挺身(ていしん)した今北(いまきた)(こう)(せん)老師は、その著「禅海一瀾」において
 昔、宋の黄庭(こうてい)(けん)黄龍(おうりゅう)(かい)堂に参ず。堂曰く、「公が(そら)んずる所の書中に一両句あり。
 甚だ吾が門の()恰好(かっこう)也、公これを知れるか」。庭堅曰く、「知らず」。時に暑退き凉生ずるに当り、秋香院に満つ。堂(すなわ)ち曰く、「木犀(もくせい)の香を聞くや」。庭堅曰く、「聞く」。 堂曰く、「吾、爾に隠す無し」と。庭堅、欣然として領解す。......
という黄山谷の開悟の逸話を例にあげて、宇宙の真理・大道というものは実は少しも隠すところなく、随所に露堂々と顕現しており、大道というものは尋常平凡なものであるとて、「吾が妙道は至簡にして至近、之を知れば即ち尋常の事なり。決して高明なる者にあらず、幽遠なる者に非ず。」と断言している。
 孟子も説いているように「道は近きに在るのに、却ってこれを遠きに求め、事は易きに在るのに、却ってこれを難きに求むる」がためである。真理は眼前にあり、大道は脚下にいささかの秘密もなく明歴々とあらわれているということを、孔子は「吾 爾に隠す無し」と説示したのである。
  芳賀幸四郎著『新刊一行物ー禅語の茶掛―』上巻より 
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