人間禅道場

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絶学  学を絶つ
   
         
 
   


       
 絶学(ぜつがく)    (がく)()
 「絶学」とは「学を()つ」ということであるが、これは怠け者の学生などが学問の道のきびしさにたえかねて、学業を放棄してしまうことではむろんない。ではどういう意味であろうか。
 禅の古典、(よう)()(しん)(かく)の「証道歌」の冒頭に「君 ()ずや 絶学無為の閑道人」とある。ここにいう「絶学」とは、この「閑道人」―()(りょう)(どう)未悟(みご)閑古(かんこ)(すい)の境涯に到った大禅者の境涯を形容したものである。しかし、それを解説するに先立って、少々理屈っぽくなるが、(じょう)法師(後秦の僧)の著とされる「宝蔵論」の一節を紹介しておこう。ちなみにその一節とは
 夫れ学者の道に三あり。その一を(しん)といい、その二を(りん)といい、その三を(もん)という。習学これを聞といい、絶学これを隣といい、この二を過ぐる者を真という。
というものである。仏道の修行者の境涯を、道の貴さを聞き知って、志を起こし修行に励む者、次に修行に修行を積み学ぶべきことは学びつくし、仏祖の境涯に今一歩という境涯(隣とは仏の境涯のすぐとなりの意)にまで至った者、すなわち絶学の境涯に到達した者、さらにその絶学の境涯をも真に透過(とうか)し、それを超絶した者、すなわち真の仏祖の境涯を得た者と、三つに分けたのが右の一節である。これでみると、絶学というのは仏祖の境涯の一歩手前ということなるが、「証道歌」にいうところの絶学は、「証道歌」の内容からみると、「宝蔵論」のいう絶学より高い境涯で、むしろ仏祖の境涯そのものとみるほうが正しい。
 それはともあれ、「絶学」とは、はじめから学ばないのではなく、学ぶべきことはすべて学びつくしてそれを忘れ、修すべきことは全部修しつくして、しかも修したという跡形もとどめない境涯、ほんとうの悟了同未悟の境涯のことである。
  芳賀幸四郎 (人間禅師家・如々庵洞然老師・元東京教育大学教授・文学博士)著 
  『新版一行物―禅語の茶掛―上巻』より  人間禅

 
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