人間禅道場

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坐忘()    坐忘(ざぼう)()()
            

 
   
 「坐忘」という語は、元来はいわゆる禅語ではない。中国の古典の「荘子(そうじ)」に出ている語である。ちなみに「荘子(そうじ)」の「内編」の第六に「大宗師編」という編があるが、そのなかに孔子と弟子の顔回との間にかわされた問答の一段がある。そしてこの問答の大意を要約すると次のようになる。
 ある時、顔回が師の孔子に向かって「私の心境に一つの進歩がありました。境涯がいささか向上しました」と告げた。そこで孔子が「それは、どのようなことかね、具体的に言ってご覧」と尋ねると、顔回が、「はい、私は仁義を忘れることができるようになりました」と答えた。これを聞いて孔子は「それは悪くはないが、まだたいした進境とはいえないね」と批評した。それからしばらくたったある日、顔回はまた孔子にお目にかかって、「私の心境にまた一つの進歩がありました」と告げた。孔子は「ほう、それはどのようなことか。どう進歩したかね」と尋ねた。そこで顔回は「はい、私は礼楽を忘れることができるようになりました」と答えた。これを聞いて孔子は批評していった。
「ふーん、悪くはないが、まだ、すばらしい心境というにはあたらないね」と。更に暫くたったある日、顔回が孔子にまたお目にかかって、「近頃、私の境涯に進歩がありました。一段と向上しました」と告げた。そこで孔子が「どんな具合に進歩したかね」と尋ねると、顔回は「はい、私は近頃、坐忘するようになりました」と答えた。
 この答に接すると、孔子は居住まいをただし、顔色を引き締めて「坐忘すると言うが、それはいったい、どういうことか」と尋ねた。孔子にこう問われて、顔回は「枝体を堕し、聡明を(しりぞ)け、形を離れ、知を去り、大通に同ず。此れを坐忘と謂う」と答え、孔子はこれを聞いて、「(なんじ)は果たして其れ賢なるかな。丘や、請う、而の後に従わん」
 と、顔回のこの答を大いに(よみ)し、彼の到達した境涯を心から讃嘆したのであった。したがって、「坐忘」の真義をつかむには、顔回のこの答をよく理解すればよい道理である。だが、それはどういう意味であり、どのような境涯をさすのであろうか。
「枝(肢)体を堕す」とは坐禅して如法(にょほう)に数息観をやり、あるいは公案の工夫(くふう)に打ちこみ佳境に入ると、換言すれば三昧(ざんまい)の境に入ると自分の肉体の存在さえ意識しないようになるものである。次に「聡明を黜く」とはどういうことであろうか。本当に坐禅三昧になっていると、蝶が眼に映っておりながら少しも気にかからず、二念・三念へと発展することがなく、犬の鳴き声が耳に伝わっておりながら、しかもそれで正念の流れが掻き乱されることはない。次に「形を離る」とはどういうことであろうか。存在するものの形相にとらわれて、好悪したり、取捨分別したりする念慮のなくなること、と(かい)して(あやま)たないであろう。では「心の知を去る」とはどういうことであろうか。ここにいう「心の知」とは人間が生まれたのちに修得した世にいう知識や世俗的な思慮才覚のことである。禅的にいえば、本具の仏性(ぶっしょう)(おお)いかくし、悟りを邪魔している「悪地悪覚」のことである。したがって「心の知を去る」とは、そのような相対的な知識を捨て、小賢しい思慮分別を去り、理屈道理を忘れ去ることである。坐禅してそれらのはたらきを尻の下に敷いてしまうことである。最後に「大通に同ず」とは、ちっぽけな()を殺しつくして天地の大道に同化し、宇宙の大生命のリズムとそのリズムを一にして生きることである。何ものにも縛られず天衣無縫(てんいむほう)無作(むさ)夢心に行動し、自然法(じねんほう)()・法爾自然に生きることである。
 顔回が「私はここまで到達しました」と孔子に告げた「坐忘」という境涯、孔子がそれを確かめたのち、「顔回よ、お主はそこまで到達したか、まことに賢というべきである」とほめ、さらに「私はお主に教えを乞おう」とまで深くうけがった「坐忘」の境涯とその生き方、それがおよそどのようなものか、以上でほぼおわかりいただけたことと思う。しかし、煩瑣(はんさ)に流れたようなので、それを簡潔に要約し結びとしよう。
 坐禅して禅定三昧に入り、いつか自己の肉体のあることを忘れ、五官が正常にはたらきながら、しかも無いに等しく、存在するものの大小・美醜などの形相にまどわされず、したがってそれらに執着することなく、一切の知識も分別もきれいに捨て去って、天地の大道に同化し、自然法爾にいきること、これを坐忘という。
 と定義してよいであろう。しかしこれでもなお煩瑣だというならば、
「坐忘」とは、身心のあることも、そのはたらきも忘れ、一切を放下して天地と一体になって生きることをいう。
 と縮めてもよいであろう。
「坐忘」とはまさに心中に一点の妄情もなく虚心坦懐(きょしんたんかい)で、しかもいささかの執着もなく、大道そのものになって生きることの謂いであるからである。


『新版一行物-禅語の茶掛-』芳賀幸四郎著より        人間禅
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