人間禅本部道場

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元来禅というものは信仰ではなく修行である。従って、そこにはいわゆる霊魂や死後の世界はもちろん、特定の与えるべき教義や、よるべき経典や、信仰の対象となる神などの定立(ていりつ)はない。ただ古来の規矩(き く)に従って坐禅を行じ、本来の面目にかえるのである。坐禅写真
 古来禅では、法の浅深よりも修行がほんものであるかどうかがやかましくいわれる。坐禅によって、それでは何が行ぜられるかといえば、主観と客観、自己と世界、善と悪などの相対的な対立の出る以前の、主客未分・自他不二の存在そのものへの還帰が目指される。


平常、われわれが「自己」と考えて大事にしているものは、実は迷いの根源であり、実体のない幻影なのであるが、人間は長い間の業障(ごつしよう)のためにそのことに気づかないのである。坐禅は、工夫を通じてその根底をつくし、人間の心というものの本体を明らかにしてゆく。
よく坐禅は解脱(げだつ)の道であるといわれるが、坐禅を行じて得るものは一物もない。それはむしろ捨ててゆく道である人間は、生れてから経験をつんで、いつの間にか「自己」とい坐禅写真う核をつくり、「自己の財産」「自己の名誉」と、その自己を中心に働くが、その自己とは一体何であるかをつきとめようとはしない。そしてその自己を中心に、いろいろの思想信条や生活の形を造り上げるのである。

仏教は、その「自己」の本体とは、実体のない幻影であることを看破する教えであるが禅は坐禅工夫による身心脱落によって、端的にこれを直証して、真実の本心にめざめさせる「空」の道である。だから、そこには外から特定の教義や信仰を押しつけるということはない。 そこでは、几ての信仰以前の心そのものの本体が開示され、如是法と一で、絶対な「空」の真実相が明らかにされる
そこに神聖にして尊厳なる心の徳が顕現してくるのである。
『法華経』(ほけきよう)の「信解品(しんげぽん)第四」に、長者窮子(ぐうし)という例えが説かれている。

 


自分の家をさ迷い出て、放浪の旅に疲れはてた子が、自分の家に戻って坐禅写真みると、そのすばらしさに驚き、そこにいる主人の偉大さに畏れて近づきかねた。それを見て、父なる主人が身を掃除夫にやつして子に近づき、話をして親近感をもたせ、家に引き入れ、だんだんと労役にもなれさせ、ついにはその家の財宝が子のものであることを明かし、子は未曽有(みぞう)なることに感泣するという話である。
丁度これと同様に、人間は心という無上の宝をもちながら流浪の旅にさ迷い出て、家に帰ろうとしない。それをみて父なる仏祖が方便をめぐらして、心にそなわる本有の明徳を体得せしめ成仏せしめる。これが仏教であり、坐禅の行なのである。

宝とは、本心本性の徳であり、仏性である。


まことに禅の道は、己れの真実の本心に還る道以外の何ものでもない。

坐禅のすすめ(内田昭夫編)
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