人間禅本部道場

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TEL 047-373-7572
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「どんなにすぐれた梅も、松の持ち味をもつことはできない」

明治の初頭に山岡鉄舟、中江兆民らの先覚者が、当時鎌倉円覚寺管長の今北洪川禅師(白隠禅師より8世)を拝請し、 社会人のための禅会として両忘協会(現在の人間禅の前身)が創設されました。

「人間禅」の名称は「人間形成の禅」を意味します。 人間禅は旧来の封建的な体質を改め、なおかつ神秘や迷信を説かず、 各人がもっぱら禅の修行によって自己を鍛えあげ、 人間として真実の味わい深い人生を生きることを目標としています。
現在、白隠禅師よりの正しい法脈を嗣いだ15名の師家を有し、 全国に15の専門道場をもつ16支部9禅会が設立され、本格の修行が行われています。

以下、人間形成の禅について「正しく・楽しく・仲良く」という三つの観点からご紹介いたします。

 

1.正しく
人間の一生は,道というものに根ざす願というものを堅持して、それを正しく転じ、後世にもそれを伝えてゆくべきものである。
人間の願には、すべての者が必ずもたねばならぬ本願と、各自一人一人の縁に結びついた別願とがある。その本願とは、仏の誓願である四弘誓願であり、別願とは、各自が職務や個性を通じて実現すべき具体的な願である。
このような願を確立し、それを転ずることのない人間の一生は、正しい本格の一生とはいえないであろう。四弘誓願は、自利と利他が不二であることを開示し、ほんとうの人生を味わいつつ、世界楽士を建設することを目指す願である。
 
 
  衆 生 無 辺 誓 願 度  しゅじょうむへんせいがんど
  煩 悩 無 尽 誓 願 断  ぼんのうむじんせいがんだん
  法 門 無 量 誓 願 学  ほうもんむりょうせいがんがく
  仏 道 無 上 誓 願 成  ぶつどうむじょうせいがんじょう


しかしこの願も、ただ心に懐かれるだけで人間形成の行によって具体的に転ぜられないならば、ただ観念に堕してしまい真実の願たることはできない。真の願は、どうしても行によって媒介されなければならない。と同時に逆に、最近よくいわれるように、一生涯を家庭教育・学校教育・社会教育の3段階に分けて生涯教育とし、人間形成の一生として受けとって承ても、その行が真実の願によって貫かれているものでないならば、その行は、ほんとうに正しいものとなることはできない。真の行は、願によって媒介されなければならない。そしてこのような正しい願と行と結びついた人間形成の本旨を開示するのが智慧であり、見性によって開かれる道眼である。
 

2.楽しく
禅は、徹頭徹尾 行を重んずる。どんなに悟道に徹しても、日々の篤実な坐禅の実習によって、一日一日がほんとうに生かされてゆくのでなくては、真実の禅者ではない。だから禅では、修行の真偽が問われる。修行がほんものかどうかが重視されるのである。どんなに大いなる信仰を得、深淵な法を悟得していても、日々の行がほんものでなければ、その人はほんものではないのである。
禅とは、だから日々の行を人間形成の行として楽しむ。この楽しみのないところに禅はない。楽しみというと、苦しみや悲しみに対する楽しみと受けとられがちであるが、ここでいう楽しみとは、もっと深く大きな次元の高いものである。生涯には誰でもいろいろな苦脳や辛酸に出遇う。悲惨にもめぐりあう。それらを自分の一生を通じての人間形成の機縁として受けとめ、境涯を高めるための修行の契機とする。そうすれば、その苦しみや悲しみは、人間形成の楽しみのための一里塚なのである。



3.仲よく
元来、禅の修行は、徹底した自力であり、如何なるものにも依存しないことを建前とするものとされ、お互いの和という面では欠くるところがあったといわれる。
たしかに道を求める修行の上において、自他に厳でなければならぬことは、一貫して堅持されねばならぬが、そのことは他に対する思い遣りや和を欠いてよいという理由にはならない。また禅は、伝法を重んじ、一筒半箇の仏種草を打出することに重点をおき、世界楽士を建設するための布教の面は比較的に軽視してきたきらいがある。
 更には又、禅は、他の仏教宗派と同じように、出家僧による寺院仏教の形式に制約され、葬式や法事の儀式を自らの職とする僧侶のあり方と結びついて、生きた歴史の現実の直中(ただなか)における人間形成の行として受けとられていないうらみがある。

このような禅のもつ伝統的な外被をとり除いて、現代のための正しい人間形成の行として禅が甦えるためには、「仲よく」ということを本格に行取しなければならない。
もともと人間には、その一人一人に、他には真似のできない独特のもち味というものがある。勿論修行の打ち込み方によって境涯には浅深の別が出てくるが、如何なる学人も衆生本来仏であり、人間形成の願行を正しく転じている限り仏の子である。
丁度、梅には梅の、松には松の、桜には桜の、竹には竹のもち味があり、その何れが特にすぐれているわけではないように、人それぞれのもち味は、他を以って換え得ぬものであり、その力が発揮されて、はじめて楽士というものの建設ができる。

 

     どんなにすぐれた梅も、松の持ち味をもつことはできない。
 

 坐禅のすすめ(内田昭夫編)

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