人間禅本部道場

〒272-0827
千葉県市川市国府台6-1-16
TEL 047-373-7572
●北総線矢切駅徒歩5分
メインメニュー
ブログ
検索
このページをシェア!
ここでブックマーク: Twitter ここでブックマーク: Facebook ここでブックマーク: Yahoo ここでブックマーク: Google
  • カテゴリ 老師通信 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

ブログ - 老師通信カテゴリのエントリ

Ⅰ 宮本 武蔵 Ⅳ(完)

武蔵の境涯

ひたすらに剣の道に生きた宮本武蔵はその生涯を通してどのような境涯へ至ったのだろうか。武蔵は自書「五輪書」のなかで「小の兵法」と「大の兵法」を書き分けている。これは一対一の勝負と多人数の合戦のことである。武蔵は江戸初期の軍学者北条氏長と交わり深く広義の兵法について学ぶところがあった。北条氏長は孫子の研究をしている師の門弟である。武蔵は前半生を小の兵法に終始したが後半生は大の兵法に打ち込もうとした。しかし時代は徳川の時代となり合戦により名をあげられる時代では無くなっていた。こうしたことから武蔵を戦国の出世を夢見て果たせなかった悲劇の出世主義者とみるむきもある。武蔵は遺言で自身の亡骸に甲冑を着せよと言ったことからも推察される。

武蔵が晩年に至り到達した人生観は、死の直前に書かれた独行道に現れている。武蔵が出世主義者かどうかは憶測の域を出ないが、それとは関係なく史上まれにみる剣の求道者であり、剣の精神でもって治世の道を探していた。以下独行道からいくつかを紹介する。
 
・道においては死をいとはずおもふ
・いづれの道にもわかれをかなしまず
・我、ことにおいて後悔せず
・仏神は貴し、仏神をたのまず
・常に兵法の道をはなれず
 
又、『五輪書』の最後、「空の巻」には武蔵のいう兵法の道について書きあらわしている。
 
「空とはきまった形がないこと。形を知ることができないものを空とみるのである。ものがあるところを知ってはじめて無いところを知ることができる。これがすなわち空である。(省略)まっすぐなところに則り、正しい心を道として、兵法の道を世にひろめ、正しく明らかに、大局をつかんで、一切の迷いが無くなった空こそが兵法の究極であり、兵法の道を朝鍛夕錬することによって空の境地に到達できるのである。」
 
これが二天一流の究極である「万理一空」の境地である。

霞山 記

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村

 ↑
よろしければ、こちらをポチッとクリックしてみてください。
よろしく、お願いします。
 ↓

にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ

にほんブログ村
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (592)
Ⅰ 宮本 武蔵 Ⅲ
寛永11年(1634年)武蔵51歳の時、養子伊織と共に小倉に現れる。武蔵は終生妻帯することは無かったが、出羽国で行き合せた孤児の伊織を養子としていた。この伊織を小倉の小笠原家に士官させた。寛永14年(1637年)に伊織は武蔵と共に島原の乱に従軍。伊織は小笠原忠真の指揮監として出陣し、後に4千5百石を領する家老職にまでなる。
 
寛永17年(1640年)武蔵57歳の時には肥後の細川忠利に招かれて客分として熊本に赴く。忠利は武蔵と小次郎に仕合をさせた細川忠興の子であり、母は明智光秀の三女細川ガラシャ。
 
翌寛永18年忠利の求めに応じ「兵法三十五ヶ条」を書く。これは武蔵の兵法を筆に記した最初の書となる。忠利は沢庵禅師と親交があり、柳生宗矩から柳生新陰流の免許皆伝を許され「兵法家伝書」を授けられている。これらの事実から武蔵に「兵法家伝書」を見せたうえで武蔵独自の兵法観を示すよう求めたものと思われる。
 
寛永19年細川家菩提寺泰勝寺の春山玄貞和尚から「二天道楽」の法号を与えられる。それにちなみ自身の流派を「二天一流」と名付ける。この年武蔵が頼りにしていた細川忠利が急逝する。武蔵は落胆に暮れ世を捨てて詩歌、茶、書、彫刻などに没頭した。
 
寛永20年(1643年)武蔵60歳。10月霊巌洞にこもり、「五輪書」を書きはじめる。
 
正保2年(1645年)武蔵の病がこのころ次第に重くなり、死期を知り門人の寺尾勝信に「五輪書」を、寺尾信行に「兵法三十五条」を贈った。最後に自戒の書として「独行道」を書き、これを辞世の書とした。5月19日居宅にて病没。享年62歳。

霞山 記

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村

 ↑
よろしければ、こちらをポチッとクリックしてみてください。
よろしく、お願いします。
 ↓

にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ

にほんブログ村

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (590)
Ⅰ 宮本 武蔵 Ⅱ

慶長17年(1612年)武蔵29歳、舟島(巌流島)で巌流の佐々木小次郎と勝負して勝つ。武蔵に関して最も有名なくだりである。武蔵は父の門人が豊前小倉の藩主細川忠興に仕えている縁を頼り、当時剣名高い佐々木小次郎に試合を申し出た。忠興は2人を舟島にて勝負させることとした。

仕合当日の朝、武蔵は約束の時刻8時を過ぎても起きようとはしない。催促の使者が来てからようやく起き上る。それから飯を食い、食い終わると今度は木刀を削り始めた。再び催促の使者が来るにおよび絹の袷を着て小舟に乗り込む。10時を過ぎたころ岸に着くと、木刀を携え素足で波打ち際をゆっくり歩き始めた。小次郎は武蔵を見るや憤然と言う。「なぜ遅れた、臆したか!」武蔵が答えないと小次郎はいよいよ怒り鞘を海中に投じる。武蔵が微笑しながら言う「小次郎敗れたり、勝つものが何で鞘を捨てるのか」。2人は同時に打ち込んだかのように見えたが武蔵の木刀が一瞬早く小次郎の頭を打ち抜き勝負が決まった。武蔵ははるか検使に一礼し木刀を携え、元の舟に乗り下関へ帰って行った。
 
その後武蔵の史実的年譜は20年近く再び空白となる。その間大阪冬の陣や翌年の大阪夏の陣に参戦したとされているが明確な記録は無い。ただ尾張と出雲にはしばらく滞在していた。この両地方に二天一流が広まっていたことから推察される。

霞山 記

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村

 ↑
よろしければ、こちらをポチッとクリックしてみてください。
よろしく、お願いします。
 ↓

にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ

にほんブログ村
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (569)
Ⅰ 宮本 武蔵 略歴
武蔵は天正12年3月(1584年)美作国吉野郡讃甘(さぬも)村宮本(現岡山県)に生まれる。これには諸説あり播磨国印南郡米堕村説(現兵庫県)もある。幼名は弁之助(または弁助)、父は兵法家新免無二斎。時代は豊臣秀吉と徳川家康の間で小牧長久手の戦があった年であり、秀吉によって全国が統一されようとしていた。
 
武蔵は幼年の頃、父の剣法をばかにしていた。父無二斎はそれを腹に据えかね、楊枝を削る小刀を武蔵に向けて投げつけた。武蔵はそれをかわすと無二斎はカッとなりさらに小柄を抜いて投げつけた。武蔵はまたかわしあざけり笑ったという。親子ともに気性の荒い性格だったことが伺える。(丹治(たんじ)峰(ほう)均(きん)筆記(ひっき)による)
 
武蔵13歳のころ播州にて新当流有馬喜兵衛を倒す。有馬喜兵衛は刀槍の達人有馬豊前守の一族であった。喜兵衛は子供の武蔵に挑発させられた。刀をすて両者組合いになると喜兵衛はたちまち武蔵に持上げられて地面に叩き付けられ、起きようとするところを棒で一撃され血へどを吐いて絶命したという。これが武蔵初めての勝負の記録である。
武蔵16歳のころには但馬国の秋山某(新左ェ門)と勝負して勝ったとの記録が残っている。
天下分け目、関ヶ原の戦いでは武蔵は17歳の頃であった。正確な記録はないが敗れた西軍に属していたとされている。
 
慶長9年(1604年)武蔵21歳、京に上って、吉岡一門と三度にわたる決闘を行っている。吉岡家は代々足利将軍家の師範として聞こえた名家である。一度目は吉岡清十郎との仕合。清十郎は真剣で武蔵は木刀、武蔵は一撃すると清十郎は倒れ、武蔵はそのまま立ち去った。清十郎は門人たちに抱えられ帰り、蘇生したが面目を失い髪を剃り頭を丸めた。
二度目は清十郎の弟伝七郎が武蔵に仕合を申し込んだ。当日武蔵はわざと仕合の時刻に遅れ、相手を苛立たせた。勝負は武蔵が伝七郎を木刀で一撃し、頭蓋骨を割って伝七郎は即死した。
三度目は清十郎の子の又七郎を擁した門人数十人が武蔵に挑んできた。場所は洛東の一乗寺村下り松付近。当日武蔵はまだ薄暗いうちに先行し身を潜めた。また遅れてくるだろうと見込んだ敵の裏をかいて急に姿を現し、一刀のもとに少年又七郎を斬り倒し近くの門人数人を斬った後、すばやく姿を消した。
このあたりの挿話は武蔵死後100年の二天記などによるものだが、自身の書いた五輪書と著しく似通っているため、事実か創作されたものか定かではない。
 
その後年譜としてはしばらくの空白ができる。武蔵の自書五輪書によれば「国々に至り、諸国の兵法者と行合」っていたと思われる。

霞山 記

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村
 ↑
よろしければ、こちらをポチッとクリックしてみてください。
よろしく、お願いします。
 ↓

にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ

にほんブログ村

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (783)
Ⅲ無住心剣術(夕雲流)

夕雲流の特徴として「相抜け」「無形」「片手剣法」が挙げられる。

夕雲流は他流が「相打ち」を極意としているのを否定し、「相抜け」が極意とされている。夕雲は「相打ち」について「己に劣れるに勝ち、まされるに負けて、同じやうになるには相打よりほかはなくて、一切埒のあかぬ…畜生心を離れ所作(形)を捨て…」「…大悟し、…一切の所作(形)を破り」と他流を否定している。

夕雲流二代の小田切一雲は「いかように奇妙不思議の兵法者出来たりとも、至極にて当流と相ぬけの外に当流に勝つ事あるべからず」さらに、「去りながら天に日月あり、終に日二つ、月に二つ、一度に出たる例はなし。もし出るとも、一つは変邪の躰なれば、能々日ににたりとも、終には自滅すべし。仏在世に仏は唯我独尊にて、一世には仏は生せず。この理を以って見れば、当流相弟子中にも、同じやうの者一世にふたりはあるべからず。況や、他流の修行力を以って、当流の内意に徹して相ぬけせん事は更にあるべからず。」と断言していて自流の絶対を示している。

「相抜け」とは夕雲が用いた言葉で、「無住心剣」による立ち合いの理想を説いたものとされる。夕雲の言葉に「両方立ち向かいて平気にて相争うものなきが相抜け」で「争うものあれば相打ちなり」とある。また一雲は、「当流は聖意に基いて聖意にはまる上は、聖は古今一聖にして二途なく、上古の聖も末代の聖も符節を合わせたる如くにして一毫の差別なければ、何れを勝り何れを劣れると云うべき所もなし、聖と聖との出合いならばいつも相抜け也」と記している。

夕雲流は、極意を得たものは、他流同流問わず互い打てない、打たれない「相抜け」となる事を到達点としていたが、出発点として「相打ちを最初の手引とす」としていた。「相打ち」もできないものが「相抜け」が出来るわけないという事である。

夕雲は「相打ちといふ事、何の造作もない事のやうに、諸人は心得る事なれども、その場に臨みては相打ちを憚り嫌いて、全き勝ちを得たく思ふ」と捨身になる事の難しさを説いている。また、一雲は「相打ちに安んずる者は、近浅容易の事に似たりと雖も彼我一体万物平生生死一路の見に処せざれば則ち聊かも安んず可からず。吾流の学者行いに顧みて相打ちを容易にすることなかれ」と「相打ち」の容易ならざることを戒めて、彼我一体の見地に立つことで相打ちは可能と記している。

心得として「敵に向かい、太刀打ちする時でも、早からず遅からず、運速を加減するという事もなく、自分の自然な動きに任せ、強からず弱からず、強弱を加減すると言うことも無く、これまた自然に任せる。急に勇気を張り発する事も無く、又、怯えることもなく、敵を意識せず、自分をも意識せず、身近な例えで言うなら、朝夕の食事の時、膳に向かいて、箸を取る手の内が、刀を取るのに良い」と残している。

夕雲流の稽古法は、「当流片手にてまづつかい候事流儀の教にて候、…」そして「相打ちを最初の手引とす」とある。各自が片手で用いるに勝手の良い刀(自由な竹刀)を用いて、唯々、相打ちとなる様、よけず、躱さず、ただ真直ぐ純真な心持で間合にゆき、竹刀を引き上げ、自然と感ずるところへ落とす…片手が上手になれば両手も然り…というような稽古だったらしい。他流からは「子どもがあそんでいる様に見られる事もあるだろうが気にしてはならない」といっている。

「片手で…」とあるが、これは夕雲の左手が不自由になって夕雲流を起こしたことに由来すると思われる。

霞山 記


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村
 ↑
よろしければ、こちらをポチッとクリックしてみてください。
よろしく、お願いします。
 ↓

にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ

にほんブログ村
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (1371)
Ⅱ夕雲の師

小笠原長治(おがさわらながはる 永禄13年/元亀元年(1570年)? - 没年不詳)
 真新陰流剣術の開祖。号は源信斎。直心影流剣術道統4代目に位置づけられ、「法定型四本」(元来5本であった型を4本に編纂)「韜の形」は彼の考案によるものと伝わる。奥山公重(直心影流剣術道統3代目)より神影流を学び、真新陰流を開く。

 豊臣秀吉に仕え、小田原の役、大坂の役の西軍に出陣。落城後に明に渡り、矛術を習得して「八寸の延金」の技(理?)を発明した。 帰国後、長治と立合いをした者で長治に敵う者は無かったといわれているが、夕雲が流儀を捨て無住心剣術(夕雲流)を開眼した後の立合いで敗北している。

「八寸の延金」は不敗の技といわれたが失伝し、後世の白井亨(一刀流系)が、自力でこれを復元したといわれているが、兄弟子の寺田五郎右衛門(五右衛門)には完敗し再度失伝し、心法とも技法ともいわれ、現在、心法では気合で相手の打込みを外し抜く法とも、剣が実際よりも八寸長いとイメージすることで、相手には実際にそのように見え隙を与えない法とか、また技法では右手を鍔元から左手よりにすべらせ間合に幅をもたせる技と言われている。

 夕雲は源信斎より真新陰流剣術(新陰流)の印可を受けていたと思われる。夕雲が取り立てた弟子二千八百人の中に新陰流の免許を八十三人に与えた。

虎伯大宣禅師
 寛永年間の始め、伊勢(鈴鹿)龍光寺虎伯禅師は三代将軍家光公に請われ、芝の金地院に於いて禪書『碧巌録』を講じてよりその名声は一時に高くなり、諸侯を初め知名の人々も日を追って帰依するに至った。

 当初、親交のあった幕府の主官医・大橋隆慶法印の宅畔に僅かばかりの土地を借りて小庵を営んで居たが、後に牛込矢来下に官地若干を賜り、ここに一宇を建立して、伊勢と同じく天澤山龍光寺と称し、伊勢(鈴鹿)龍光寺の別院とした。

 中でも、特に信仰の深かった京極、小笠原の両氏は廟所を當寺に定め、それにより両氏を当寺の開基とした。明暦二年、此地は御用地となり酒井讃岐守により豊島郡駒込村(現在地)に三千六百坪を拝領し移転改築した。 
 
『伊勢龍光寺誌』より  
天澤山龍光寺
宗派
禪宗(臨済宗) 東福寺派
 
開山 
虎伯大宣禅師
(東福寺240世、鈴鹿龍光寺中興24代)
 
開基 
肥前唐津藩小笠原家
三河吉田城主小笠原壱岐守忠知公
讃岐丸亀城主京極刑部少輔高和公
 
創立 
寛永9年(1632)2月
明暦2年(1656)11月駒込に移転
 
 夕雲が禅師に参禅するに至った経緯は不明だが、「小笠原氏は廟所を當寺と定め」とあるので剣師である小笠原長治の紹介かもしれないが不明。禅師との師弟関係は親密だったようで、夕雲が上州伊香保に出かける途中落馬して重傷を負い、左手が不自由になるという事故にあったとき、禅師は夕雲の旅先での事故を知り、見舞いのものを夕雲の元へ送り、そのとき「日頃の剣術手足の動ざる際如何」という口上をこの見舞いのものに託している。それをきっかけに夕雲は大悟し、「無住心剣術」を起こしている。      

 又、「自分の相抜けは、虎伯和尚について禅を行い、程度の高い公案を十八も透っている。そこから出ている釈尊の精神だ」と言って禅師に信頼をよせている。

霞山 記


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村
 ↑
よろしければ、こちらをポチッとクリックしてみてください。
よろしく、お願いします。
 ↓

にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ

にほんブログ村
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (1035)
針ヶ谷 夕雲(はりがや せきうん、生年不詳 - 1669年(寛文9年))
江戸時代初期の兵法家、剣客。無住心剣術(夕雲流)開祖。名は正成。通称、五郎右衛門。夕雲と名乗ったのは、晩年である。

Ⅰ経歴

上野国針ヶ谷(旧埼玉県大里郡本郷村、現深谷市)に生まれる。
真新陰流剣術(新陰流系)開祖の小笠原長治(源信斎)が中国(明)から帰国して後の門人といわれる。無学文盲だったといわれているが、武術を十数流を学び、四十歳ごろまでは、学んできた流派の刀法を守っていたとされるが、その剣風は「身丈は六尺、力は三人力あったという体格と体力があったため、気力と体力にまかせ、刃引きしてある刀で多人数を相手に片っ端から叩き切る」という凄まじいものであった。

刃引きの刀にしていた理由は、「刃がついていると大勢を相手に戦うとき途中で刃がこぼれ、引っ掛ったりするので最初から刃をつけずに叩き殺すほうが良い、脇差は切腹するときの用意によく研いである」と述べていて、凄まじい豪気のほどが察せられる。生涯52度の試合で不敗だった。

経緯は不明だが、本郷駒込の天澤山龍光寺、虎白禅師のもとで参禅するようになり、自身の考案した「相抜け」の境地の前ではそれまでに学び得た刀法「八寸の延金」(小笠原長治が発明)等のことごとくは虚構に過ぎないとして流儀を捨て、自性本然受用の勝理を自得したとされる。いわく、「兵法を離れて勝理は明らかに人性天理の自然に安坐するところに存する」というもので、刀の勝負より心の勝負を説いたものとされる。虎白はその剣を「流というべきやうもなければ、名もなし、名づけば無住心剣術と云わんか」と言い「金剛般若経」から取り「無住心剣」と命名した。

生涯、主取りすることなく浪人のまま過ごしたが、紀州藩から内証扶持をもらっていたとされる。晩年は江戸八丁堀に住み、寛文9年(1669年)に60余歳で没した。

霞山 記

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村
 ↑
よろしければ、こちらをポチッとクリックしてみてください。
よろしく、お願いします。
 ↓
にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ

にほんブログ村
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (1048)
小野次郎右衛門忠明
 
 一刀斎が典善の将来大成する見込みがあると認めていうには『爾もし武術の精妙奥秘に達し、それによって身を立て功を挙げ名を成そうと望むならば吾に従って諸国武者修行をなし、具さに辛酸を甞め心根を養い武技を練るがよい』と。

 典善は、一刀斎に随身、諸国を遍歴し、高名な人とあっては典善がまず立合い、また師一刀斎が立合うのを典善が見て大いに学ぶところがあり、心身武技が次第に上達した。

 一刀斎には予てより随身していた善鬼(元は船の船頭で名を長七と言った)という典膳にとっての兄弟子があり、膂力武技強剛で群を抜いていたが性来粗暴放漫であるため師の心に叶っていなかった。

 一刀斎は、典善の人となりを信頼し、これに一刀流の統を継がせようと心潜かに望むところがあった。
 一刀斎は或る日、典善独りに告げていうには『吾れ爾に一刀流の統を継がせ、爾によって一刀流を天下後世に敷かせるために爾に秘奥の一書を授けようと思う。しかし吾には爾より先に随身した善鬼がおる。いま爾の技倆を以てしては未だ善鬼の強剛なのには及ばないからわれ爾に必勝の法を授ける。爾よろしくこれによって戦え』と、即ち夢想剣の秘法に添えて一刀斎が身腰から離さなかった瓶割の一刀を授けた。

 老年を迎えた一刀斎は或る日に善鬼、典善の二人を伴って下総の国相馬付近に到り、両人に告げていうには『吾れ少年の頃から武を嗜み、天下を遊歴して当代に武名を以て鳴る者を悉く訪ねて雌雄を決することいくたびに及んだが、ついにわれに叶う者がなかった。それからわれは天地神明に盟をたて、日月星辰を友として陰陽太極の道を剣に配して一刀流を創建充実し、以て天下万世に敷く基とした。いまやわが志願が成就してこれ以上の願望がない。而も早や老のわが身に迫るを覚える。故にここに於いて爾等の内一人に一刀流の奥秘を悉く伝えわが統を継がせようと思う。しかしこれは唯授一人の法であって二人に与えることができない。仍って爾等のうち優った者に伝えるから、この嚝野で潔く勝負を決せよ』と。

 善鬼は、自分が高弟だからまず自分に授けられたいと懇願するが、一刀斎は許さず、善鬼は矢庭に側に置いてあった秘奥の書を盗み取って逃げ出し、松の木の側に伏せてあった大きな瓶に潜み隠れた。典善が走り寄り、一刀斎が遅れて遥かより『瓶を除くと脚を払われる。瓶諸共に斬れ』との言葉に応じて、瓶諸共に善鬼の頭を割った。
 この時善鬼は、秘奥の巻物を口にくわえたまま離さなかった。一刀斎は是を見て、一旦善鬼に与えると云われた時に始めて巻物を口から離した、と云われている。

 小野次郎右衛門忠明は、伊藤一刀斎から剣心一如の奥義を体得した。正に人間形成の剣豪の一人としてその名を今日まで轟かせている。

 小野次郎右衛門忠明は、(1593年33歳)徳川家康に仕官して200石の禄高を与えられ、柳生新陰流と並ぶ将軍家剣術指南役となる。(1623年63歳没)病みて江戸に没す。

霞山 記

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村 
 ↑
よろしければ、こちらをポチッとクリックしてみてください。
よろしく、お願いします。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (515)
西東京禅道場ブログより転載させていただきます。剣外拝


 陰徳を積むことができるのは、ちっぽけな自我が空じられているからできるのであり、ちっぽけな自我を空ずるには、長年の坐禅修行によって三昧が身に付かないとできないことです。
 こうなると、余程人間形成が進んだ人でないと、陰徳行はできないと云うことになります。
 厳密にはそうですが、しかしそうではなく、座禅によって人間形成をしようとする人は、人間形成を進めるための「行」として、努めて陰徳行に励むと云うことが大切であり有り難いのです。ですから先師磨甎庵老師も若い学生の小生に“陰徳を積むように”と云われ陰徳行を勧められたのだと思います。

 ちっぽけな吾我があっては陰徳を積むことはなかなかできないことですが、その吾我の意識に逆らってでも陰徳行を積んで行くと、ちっぽけな吾我をだんだんと小さく弱くして行くことができるのです。ここが有り難いところです。

 すなわち仏教用語で云うところの識蘊(吾我の意識)を、努めて陰徳行を積んで行くことにより少しずつ空ずることができるようになるのです。
 これは単なる座禅三昧で三昧力を身に付け、ちっぽけな吾我意識を空ずるよりもより効果が大きいのです。それは古来より云われている「動中の工夫は、静中の工夫に勝ること百千倍」と同じような効果であり、人間禅の伝統である作務三昧による道力の養成にも通ずるものです。

 人間形成は、三昧を身に付けることですが、その中身として最大な課題が、吾我(識蘊)を空ずることです。陰徳を積むと云うことは、この最大の課題である吾我を空ずるための有効な実践行と位置づけることができ、したがって陰徳を積むことにより人間形成を大きく進めることができるということになります。

 個人の人間形成のために陰徳を積むことをみんなが実践し、その個々の点を線にし、線を面にして、人間禅全体として社会に対して陰徳を積んで行けるようになればと常々願っております。

 そして願わくば、日本の国全体として陰徳を積む風土が少しずつでも伝統化されて行けば、世界楽土すなわち「正しく・楽しく・仲の良い社会建設への道」が確かなものになると思う次第であります。
(完)

 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村
 ↑
よろしければ、こちらをポチッとクリックしてみてください。
よろしく、お願いします。
 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (703)
小野次郎右衛門忠明

 始めは、母方の姓を名乗り、神子上 典膳 吉明(みこがみ てんぜん よしあき)であった。
 出生地 伊勢 父 神子上土佐守 母 小野姓 3人目の男子
 家系 父祖代々、大和国の城主十市兵部の後裔で伊勢に住んでいたが、後に上総国に移り、万喜少弼(まんきしょうひつ)に仕えていた。
(万喜少弼 出所:インターネット「『信長の野望 嵐世記』武将総」)
 土岐為頼(1523-1583)里見家臣。万喜城主。家中屈指の戦上手といわれ「万喜少弼」と呼ばれて畏れられた。第二次国府台合戦後に里見家を離反、北条家に属して里見家と戦った。
少弼:律令制で、弾正台(だんじょうだい)(非違の取り締まり、風俗の粛正などをつかさどった役所)の次官(すけ)。大・少各1名。
他の説(出所:インターネット ウィキペディア))

 安房国(現千葉県南房総市)に生まれる。はじめ里見義康に仕え天正17年(1589年)11月、里見家の家来として万喜城攻撃に参加。正木時堯(正木大膳)と一騎討ちをしたが決しなかったと『里見代々記』にある。
弱冠で武芸が群を抜き三神流の剣術に長じ自ら恃むところがあった。

 1582年(17歳)一刀流の祖となる伊藤一刀斎影久が上総を訪れた時に立会い、負け、入門。翌年より武者修行に従う。

 伊藤一刀斎影久が遇々上総に来て宿の前に高札を立て「当国に於いて剣術に望みある人あらば来て我と勝負せよ」と認めた。典善が勝負を求めると一刀斎は、快くこれに応じた。

 典善の太刀に対して、一刀斎は燃えさしの一尺五六寸程の薪をとり相対した。典善が脇構えによって進み寄ったが、一刀斎は典善の刀をわけもなく奪い取って脇の薪棚に乗せて奥に入って行った。典善がもう一度仕合を望んだ。一刀斎は奥から出てきて「若い者は稽古が大事だから幾度でも相手になってあげよう。そなたの体に疵をつけるようなことはしないから、安心して打ち込んできなさい」と前の薪をとり立ち会った。

 典善、今度は木刀取り、力のあらんかぎり打ち込んだが、その度毎に何辺も何辺も木刀を打落され、一刀斎の衣服にさえ触りえなかった。

 典善は家に帰り一夜思いめぐらしてみるに一刀斎は全く神の如く水のごとくで、これは氏神の化身であろうと感服し、翌朝一刀斎の宿を訪ね弟子となりたいと懇願、一刀斎は典善の将来を嘱望して入門を許した。
 
霞山 記

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村 
 ↑
よろしければ、こちらをポチッとクリックしてみてください。
よろしく、お願いします。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (632)