人間禅本部道場

〒272-0827
千葉県市川市国府台6-1-16
TEL 047-373-7572
●北総線矢切駅徒歩5分
メインメニュー
ブログ
検索
このページをシェア!
ここでブックマーク: Twitter ここでブックマーク: Facebook ここでブックマーク: Yahoo ここでブックマーク: Google
  • カテゴリ 文化系の同好会 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

ブログ - 現代語で読む『禅茶録』(9)

現代語で読む『禅茶録』(9)

カテゴリ : 
文化系の同好会
執筆 : 
人間禅道場 2015/12/9 16:13
『禅』誌35号から39号まで、寂庵宗澤書『禅茶録』(1828年〈文政11年〉刊)の現代語訳を京葉支部の片野慈啓禅子が連載され、2014年4月に私家本として自費出版されました。

「茶禅一味」を味わう上で参考に供する記述が多いので、訳者片野慈啓禅子より許諾を得て中央支部ブログに転載させていただきます。


(三)茶の意の事(第1段)

 茶意は即ち禅意也。故に禅意を舎(おき)て外に茶意なく、禅味を知らざれば、茶味も知られず。

 然るを世俗に茶意とするは、一箇の趣を立つるをいへり。

其のたてたる趣を真(まこと)の禅茶意と認めて、証入(しょうにゅう)したる気色(きいしき)面(おもて)に見はれ、増上慢を生じて妄(みだ)りに人を誹謗(ひぼう)し、世上の茶人皆茶意を知らずと言ひなし、或は云く、茶意は詞(ことば)をもって説くべからず、容(かたち)をもって教ふべからず、己れと観じて領解(げ)せよとて、此れを教外(げ)別伝なりとおもひ、独り覚(さと)りたる邪見を起す、これ皆趣のなす業(ごう)なり。

されば、我が建てたる趣と他(ひと)の趣に、彼我(ひが)の隔てをなして、人は悉く茶意を識(し)らずと嘲(あざけ)り笑へど、趣は人々にありて、人々に替(かわ)る者なり。

我が趣に異なるを互に誹(そし)るは、争訟(そうしょう)の基(もとい)にして、慢心ますます募(つの)り、遂に悪趣の俗茶が面白くなりゆき、一切の邪想随(したが)ひて生ずるなり。

是を真の禅茶と思はば、相去こと千万ならん。

(三)茶の意の事(第1段)

=現代語訳=

 茶の心は即ち禅の心である。だから、禅の心をおいて他(ほか)に茶の心はなく、禅の味を知らなければ、茶の味わいも知らない、ということである。

 それなのに世間で茶の心とするのは、一つの趣向を立てることをいっている。

その立てた趣向を本当の禅茶(ぜんちゃ)の心と認めて、もっともらしい様子が顔に現(あら)われ、偉ぶった態度を見せてむやみに人を悪く言い、世の中の茶人(ちゃじん)は皆茶の心を知っていない、と言いたて、或は茶の心は言葉で説(と)くべきではない、姿形では教えることができない自分を見つめて納得せよ、と言って、これを教外別伝(きょうげべつでん)であると思い、自分一人覚(さと)っているという邪見を起す。これ皆趣向のなす所業である。

それだから、自分が立てた趣向と他(ほか)の人が立てた趣向に、彼れ、我の隔(へだ)てをつくり、人は悉(ことごと)く茶の心を知らない、と馬鹿にして笑うが、趣向は人々(ひとびと)にあって人々によってかわるものである。

自分の趣向と違うのをお互いに悪く言うのは、争(あらそ)いのもとであって、自慢気(じまんげ)な心はますます募(つの)り、ついに悪い趣向の俗茶(ぞくちゃ)がおもしろくなってゆき、あらゆる邪(よこしま)な想(おも)いが生まれるのである。

これを本当の禅茶と思うならば、本当の茶から遠ざかること、その距離は大変な距離となるであろう。

転記・改行 剣外


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村
 ↑
よろしければ、こちらをポチッとクリックしてみてください。
よろしく、お願いします。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (415)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

トラックバック

トラックバックpingアドレス http://keiyo.ningenzen.jp/modules/d3blog/tb.php/578